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1879.01.11(Sat)

 アトリエでは私はもう社交界に出ているか何ぞの様に思われている。このことが、私の地位と共に私を皆から引き離して、良くお互い同士でしているようなちょっとした事を彼らに頼む事さえ出来ないありさまである。例えばある画家を訪問するとかどこかのアトリエに行くとかするため一緒に行ってくれないかと頼むような事さえも。
 この週間の仕事を土曜日の夜の10時までかかって仕上げて、それから家に帰ってくると私は泣きだした。今まで私はいつも神に話しかけていた。けれども神は私の言う事を聞いて下さらないから私は信仰を失い掛けている……ほとんど。
 この感じを経験した事のある人でなければ、この恐ろしさをば十分に理解する事は出来ない。私は宗教を善意から説こうとは思わない。神は非常に便利な仮設物である。頼るべきものの無い時、その他の事がことごとく失敗を意味する時、そこにはまだ神が残っている。神は私たちに何事をもしてくれるのではなく、何人をも妨げる事をしないが、最高の慰安を与えてくれる。
 神が存在するか否かにかかわらず、私たちは神を信ずるように絶対に束縛されている、私たちが全然幸福でない限りは。幸福な時は私たちは神なしで過ごされる。しかし悲しみと不幸においては、実際、あらゆる種類の不快においては、信じないよりはむしろ死んだ方がましである。
 神は私たちを全くの絶望から救い出そうとしての1つの創意である。
 良く人が最終の結果に望んで神を信ずることなくして神の名を呼ぶのはどうした事であるかを考えてご覧なさい!
by bashkirtseff | 2008-12-05 18:11 | 1879(20歳)
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