夫と妻は別々の楽しみを持ちながら、互いに愛し合うことが出来ると言う人がある。
それはうそである。そんなことは出来ない。なぜと言うに、もし、若い男と若い女が互いに愛しているとすれば、彼らはほかの人のことが考えられるであろうか! 彼らは愛し合っていれば、互い同士に十分の楽しみを見いだす。 ほかの女の上に与えられるただ一つの目つき、ただ一つの考え、というものが、その人はすでに今まで愛していた女を愛していないことを実証する。なぜと言うに、私はいま一度質問すると、もしあなたが本当にある女を愛しているならば、ほかの女を愛するというようなことが考えられるでしょうか? もちろん考えられません。それならば、嫉妬(しっと)とか、非難とかいうものがなぜ必要でしょうか? 人は、例えば死ぬ場合にするように、もうどうすることも出来なくなったと思い付いて、少し泣くと慰めになるものである。胸がある女のことでいっぱいに満たされている間は、ほかの女に入り込む余地はないものである。けれどもそれが空になりかけると、今一人の女がその小さい指でそれに触った瞬間に、全く入り込んで来ると言ってもよい。 1875年3月末日記入 このときの私の推理には多大の真理がある。けれども、私はまだ子供であった。「愛」という言葉をよくこんなにもたくさんに使ったものだ! ……哀れなる私よ! 私のフランス語にも間違いがある。皆直しておけば良かった。私は今ならばもっとよく書けると思う。しかしまだ私の望むほどには書けない。 誰の手にこの日記は落ちるであろう? それは私と私の家族にだけは興味があるだろう。けれども私の日記が誰にも興味を持たれ得るほどの人に私はなりたい。しかし私は自分のために書くのである。そうして、自分の生活をすべて批評して過ごすのは、よいことではあるまいか? ……
by bashkirtseff
| 2004-10-31 21:14
| 1873(14歳)
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