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1876.04.19(Wed)

 私は何という不利益な地位にあることだろう。ピエトロは私がなくともクラブもあれば友達もあり世間もある。要するに、私以外のものをば何でも持っている。それに私はピエトロよりほかには何にも持っていない。
 私は彼にとってはただ楽しみの目的物に過ぎない。彼は私にとってはすべてのものであった。彼は私に世界でえらい働きをしようという心を忘れさせていた。私は彼のことばかりで一杯になって、そのことを考えなくなっていた。あまりに幸福な心持ちになって、考えもしないでいた。
 私は自分が将来どうなるか知らないが、とにかくこの日記だけは世界に残すつもりである。
 私たちの読む書物は皆こさえ物である。筋に無理があり、性格にうそがある。けれども、これは全生涯の写真である。ああ! こさえ物は面白いが、この写真は退屈だ、とあなたは言うでしょう。あなたがそんなことを言うならば、あなたはひどく物のわからない人だと私は思います。
 私はこれまでまだ誰も見たことのないような物をあなたにお見せするのです。これまでに出版されたすべての思い出、すべての日記、すべての手紙は、皆世界を偽るためのこさえ物に過ぎません。
 私は世界を偽ることには少しも興味を持っていない。私には包むべき政略的の行為もなければ、隠すべき犯罪の関係もない。私が恋をしようとしまいと、泣こうと笑おうと、誰もそんなことを気にかける人はありはしない。私の一番心にかかることは、出来る限り正確に私というものを表したいことである。私は自分の文体とか正字法とかには何らの欲目も持ってはいない。手紙を書くのに間違いのないくらいなことは出来る。けれどもこの言葉の大洋の中では、もちろんかなりたくさんな誤りがあることだろう。その上、私のフランス語には間違いがある。私は外国人である。けれども私の国の言葉で書かせると私はもっとひどいものをきっと書いたであろう。
 しかしこういうことを書くために私は今日記を開いたのではない。私の書こうと思うのは、まだ正午にならぬということと、今日はいつもより苦しい思いにふけっているということと、心臓を押し付けられているような心持ちだということと、うめき声を立てたいということである。けれどもこれは私の状態である。
 空は灰色である。キアヤ(ナープルの西海岸の通)を横切るものは、馬車かよごれた徒歩者だけである。両側に植わっている愚かな木が海の眺めを遮っている。ニースのプロムナード・デ・ザングレには、片側に別荘があり、片側が海になって、海が何物にも妨げられないで磯部まで来ては砕けている。ここには一方に家があり、一方に公園みたいなものが道路まで広がって、その道路が公園と海を引き離して、その間のかなり大きな空地は石やら建物やらに覆われ、真に荒涼たる光景を呈している。
 キアヤのはずれの広場まで行くと、そこには美しい灌木(かんぼく)が茂って、ずっと気持ちがよくなる。さらに進んで波止場まで行くと、左手には家が並び、右手には海がある。けれども海は手すりの付いた岸で仕切られて、その上にカキや貝を売る人たちが列を作っている。その次に港の手すりがあって、船に関したいろんな建物があって、港そのものがある。しかし、それはもう海ではない。それは多くの忌まわしいものの群がっている汚い場所である。
 どんよりした天気はいつも私を少し物悲しくする。しかし今日は私を押しつぶしそうである。
 私たちのオテルのこの死のような沈黙、外でベルを鳴らして通る馬車の嫌な音、この灰色の空、窓掛けを吹くこの風! ああ! 私は甚だしく悲惨である。これは空のせいでも、海のせいでもなく、地上のせいである!
by bashkirtseff | 2005-07-24 12:42 | 1876(17歳)
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