10時ころピエトロが来た。客間は大層大きくて、大層美しい。ピアノは大きいのと、それからもっと小さいのと2つある。私がメンデルスゾーン(底本:「メンデルスゾオン」)の「言葉なき恋愛曲(ロマンス)」をそっと弾いていると、A…が彼の恋愛歌(ロマンス)を歌いだした。彼がその歌に熱情を打ち込めれば打ち込めるほど、私はますます笑いだして、ますます冷静になった。
私はA…を本当にまじめだと思うことは出来なくなった。 愛する人の言うことはどんなことでも良く見える。私が無関心でいる人に対しては、時として面白く感じる。無関心でない人に対してはなおさら面白く感じることもある。彼が愛と優しみに満ちた話をしている最中に私は何か彼がたまらずおかしがるようなことを言うと、彼は笑い出す。すると私は彼が笑ったことを非難して、まじめにしないで、何でも気違いのように笑うような子供は信じないと言う。私は何度もそれをしたので、とうとう彼は怒ってしまった。それから彼は「ウェスタ(ローマ神話中かまどの女神に仕える祭尼、ここではそれを主材としたオペラの名/底本:「ヴェスタル」)が上演された最初の晩から、どう言う風に恋するようになったかを私に話した。…… ──僕はあなたのためなら、どんなことでもするほどまでに愛しているのです。彼は言った。ピストルの2つ弾丸で自殺しろとおっしゃい。僕はやります。 ──そしたら、あなたの母様(メエル)は何とおっしゃるでしょう? ──僕の母は泣くでしょう。そして僕の兄弟(フレール(底本:「フレエル」)たちは言うでしょう。「僕らは3人だったのに、2人になってしまった。」と。 ──下らないことだわ。私そんな証拠を欲しいとは思いません。 ──だって、どうしたらいいのです? 言って下さい! この窓から下の噴水に飛び降りればいいのですか? 彼は窓に駆け寄った。私は彼を引き留めた。すると彼は私の手を取って離さなかった。 ──いや、彼は涙のようなものを飲み込みながら言った、僕はもう冷静です、しかし1週間前は、ああ! ……もう二度とあんなに怒らせないで下さい。何とか言って下さい。 ──そんなこと、ばからしいわ! ──そうです、若気の愚かさでしょう。しかし僕はこれまで今日、今の瞬間のようなことを感じたことはなかった。僕は気違いになるのじゃないかと思った。 ──ひと月もすれば私は行ってしまうから、皆忘れられてしまいますよ。 ──僕はどこへでも着いていきます。 ──そんなわけにはいきませんわ。 ──じゃ誰が僕の邪魔をするのです? 彼は私の方へ突き進みながら叫んだ。 ──あなたは若すぎるのです。私は何かほかのものを弾こうと思って、メンデルスゾーンからもっと柔らかい、深みのある夜想曲(ノクターン(底本:「ノクチュルン」)に移りながら言った。 ──結婚しましょう。私たちの前には輝かしい未来があります。 ──そうね、もし私が望みさえしたらね。 ──ああ! どうして、もちろんあなたは望むでしょう。 それから彼は行ったり来たりしているうちにますます興奮して来た。私は顔色をも変えなかった。 ──そうね、私は言った、あなたと結婚するとしたら、2年たつとあなたはもう私を愛しなくなるでしょう。 私は彼は息が詰まっただろうと思った。 ──否(ノン)、どうしてそんなことを思うのです? そう言って苦しい息をつきながら、目に涙をためて、彼は私の足元に倒れた。 私は怒りに燃えながら身を引いた。おお、保護者なるピアノ。 ──あなたは立派な性格を持っていらっしゃるはずですね。彼は言った。 ──私もそう思いますわ、でなかったら、私はもうあなたを追い出していたでしょうから。私は振り向いて笑いながら答えた。 私はそれから落ち着いて、満足して立ち上がった。そうしてほかの客を接待するために行った。けれどももう帰る時分であった。 ──もう時間ですか? 彼は不審そうな目をして私に聞いた。 ──そうですよ。母様が答えた。 私は母様とヂナに出来事を手短にかいつまんで話し、それから部屋へ行って閉じこもった。そうして日記を書く前に1時間の間、両手で顔を覆って、指を髪の毛に突き入れたまま自分の感情を解釈してみようと試みた。 私は自分と言うものがわかって来たように思う! かわいそうなピエトロ、私は彼のことを思わないのではない。その反対である。けれども私は彼の妻となるには満足されない。 金持ちや、別荘や、ルスポリ、ドリア、トルロニア、ボルゲーゼ、キアラなどの博物館などが私を押しつぶしそうだ。私は何よりも高ぶって、野心に満ちている。人がもしこんな人間を愛するとすれば、それは私のことがわからないからだ! もしこんな人間のことが本当にわかったら……ああ! なんだ! やはり同じように彼は私を愛するであろう。 野心は高貴な熱情である。 これがなぜ誰かほかの人でなしに、A…であるのだろう? 私は名前を変えては、いつも同じ言葉を繰り返している。
by bashkirtseff
| 2005-02-27 22:44
| 1876(17歳)
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