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1881.12.02(Sun)──マドリッド

 あなたはこの不名誉な屠牛場を見捨てると夢から覚めたような気持ちになるでしょう。闘牛! 年取った牛馬の忌まわしい殺りく。そこには人々が危険なしに駆け回ったり、下らないまねをしたりしている。実際私が面白かったのはただ塵埃(じんあい)の中を転げ回っている人たちを見ることだけであった。その中の1人は雄牛のために踏み付けられた。彼が逃げ出したのは全く奇跡であった。その結果として彼は非常な喝采を受けた。
 人々は葉巻を投げたり、──帽子を投げたりした。それらは極めて巧みに投げ返された。人々はもっともやぼな声を立ててハンカチーフを振った。
 残酷な競技である。しかしそれが面白いのであるか? いや、決して! それは刺激とも言われなければ、興味とも言われない。一頭の怒っている動物はさまざまの色の着物をうるさがりながら、さらにその体を突き刺す一種の剣で気違いのようになって来る。血が流れれば流れるほどその動物はますます身震いして前の方へ飛び跳ね、さらにまた手傷を負うのである。目を縛られて、よぼよぼの馬がその前に引き出されて、牛に怒らされる。内臓が飛び出す。けれども馬は突っ立って最後の息の絶えるまで乗っている人の言うとおりになる。乗っている人は馬と共に倒れる。しかしめったに傷つくことはない。砂の上に黒い血が流れ、牛の背に赤い血が流れる。私はそこへ着くとすぐ一頭の黒い雄牛が赤いリボンのように血を付けているのを見た。初めはリボンで飾ってあるのかと思った。それは投げやりが刺さって血が流れているのであった。格闘は馬が倒れた後まで続く。12人ばかりのエスパアニュのばか者どもがその雄牛を傷つけながら怒らせていると、雄牛はついに彼らを追いかける。けれども決まって外とうで防ぎ止められる。そうして最後に雄牛が頭をそらして血を流しながら、痛手にうめきながら立ち止まっていると、ばか者どもはまた赤い外とうを打ち振りながら雄牛をけ飛ばす。そのとき観客は足を踏み鳴らす。するとかわいそうな動物はひざを折って、野に休んでいる雄牛のごとく罪のない形をして死んでしまう。それは盆の窪をただ一打ちでやられたのである。楽隊がはやし立てる。するとリボンと馬具で飾り立てられた3頭の馬が疾駆して死んだ雄牛のところへ駆け付ける。それからまたその次のが始まる。馬に乗った3人の男と、前よりもさらに気抜けした馬と、及びこっけいな、血なまぐさい扮装(ふんそう)の闘牛者たちと。
 そうして約15頭の馬と5、6頭の雄牛が殺されてしまうと、派手やかな人たちはブエン・レチロの方へ馬車を駆って行ってしまう。ブエン・レチロは世界中で一番きれいなプロムナードの1つで、私はボアよりも勝っていると思う。もちろん、ロンドンや、ヴィエンヌや、ローマなどは比べられもしない。しかし、否。ローマにはほかに比類のない魅力がある。
 国王も女皇も王女たちも闘牛に来ていた。観客の数は1万4千人以上であった。いつも日曜日のたびにそうである。あなたはこの恐怖がいかに彼らを刺激しうるかを理解するためには、その不吉なばか者たちの首を注意しなければなりません。少なくとももしそれが本当の恐怖であるとすれば。しかしおとなしい馬や雄牛たちは怒らされたり傷つけられたり殺されたりするのみである。
 女皇はオーストリーの生まれでそれを喜ぶはずはない。国王はパリに来ているあるイギリス人のような顔をしている。王女たちのうちの一番年下の人は実に美しい。女王イサベルは私が彼女に似ていると言った。私はうれしかった。彼女は実際美しいから。
 私たちは木曜日の朝ビアリッツを立って、夕方ブルゴス(エスパアニュの北東地方の都市)に着いた。私はピレネー山脈の美に打たれた。幸せなことに、ビアリッツのボール紙のような岩がもう見えなくなった。
 私たちはフランス語の出来ない1人の強壮の紳士と道連れになった。そうして私たちは誰もエスパアニュ語が分からなかった。けれどもその人はある絵入り新聞を説明してくれたり、停車場で私に花を買ってくれたりした。その人のそばにリスボンへ行く1人の青年がいた。ジブラルタルのイギリス人か何かで、しきりに役に立とうと努めていた。
 私の母たちと一緒に歩いているこの旅行がもし愉快だと思うならば、あなたはとんだ間違いをなさっていらっしゃる。しかし、それは当然のことです。なぜと言うに、母たちには私の若さもなければ、私の興味もないのだから。けれども、もう済んだことだから私は彼らのうるさい、おせっかいなありさまを詳しく話すことはやめにしよう。──彼らは人の行ったことのない国へでも来たような当惑した顔をして、つまらないことばかり聞くのである! ──案内者はブルゴスでは寒いと言った。それはいまいましいことであった。なぜと言うに、私たちは毛皮の外とうを持ってこなかったから。何という国だろう! そうして何が見られるのだろう? 寺院か? そこにはイギリス人でなければ行かない。何より悪いことは、こんな話は皆第3人称で私を目当てにして話されているのである。でなければ彼らはほかの話をしているときに、口に出して言えないようなことをわざわざ言うはずはないであろうから! そうしてもし私が反対すると、彼らは私がけんかを買うと言い出す。けれども私が旅行を主張したのではなかった。私たちがエスパアニュへ行くことを言い出したのは彼らである。
 さてブルゴスに着いた。……ああ! 本当に彼らは耐えられない。彼らは第3人称の話しぶりで悲しそうなあきらめを言ったり不平を漏らしたりするときのほかは、あきれてしまうほどに平気を装っている。
 それはそれとして、私は寺院で荒い写生をした。装飾や、彩色像や、めっきや、花模様などの集合。それは1つの立派なまとまりを造り出しているが、言葉で説明することは不可能である。ああ! あの薄暗い礼拝堂と、あの高い格子。実にそれは驚異である。ことに宗教上のロオマン主義の一象徴として。こんな教会堂は会合所のような気がする。聖水に指を浸しながら秋波を送るべき人を見回している者がある。これはまたラ・カルツジャの比較的地味な修道院にもふさわしい。私たちは日が暮れてそこへ行った。それはエスパアニュ教会の詩をさらに高調するものである。寺院にはレオナルド・ダ・ヴィンチの有名なマドレエヌ(マグダラのマリア)がある。私はそれを醜いと思ったことを自白せねばならぬ。それは私に何らの感動をも起こさせなかった。ラファエルの聖母の場合にもそうであった。
 私たちは昨日の朝からマドリッドに来ている。今朝は博物館に行った。ああ! ここの蒐集に比べるとルーヴルなどは何物でもない。ルウベンスも、フィリップ・ド・シャンパアニュも……それから、ヴァンダイクやイタリアの画家たちも皆光を失ってしまう。何物といえどもヴェラスケスに比較されうるものはない。しかし私はまだ幻惑している、判断が出来ない。それからリベラ(別名スパニョレットオ、エスパアニュの画家、後ナープルに定住して宮廷画家となった/1588-1656)は? おお、彼らは真実の自然主義者である!
 彼ら以上に真実なものを見ることが出来うるだろうか? 何という驚くべきことだろう! こんな絵を見ていると、私は本当にいやになってしまう。私はどんなに天才というものが望ましく思っていると思いますか! しかるに世間ではこの2人を色のないラファエルや空虚なフランス派の画家に比較したりしている!
 色! 色を感じてそれを出し得ないということは全然あり得ない! ソリアが夕食前に友達のムッシュ・ポラック(鉄道監督官)とその息子を連れてきた。その息子というのは画家で、ジュリアンのアトリエで勉強したことがあると言った。
 私は明日1人で博物館に行きたいと思う。なぜと言うに、名作を見ているときに、つまらない批評を聞くほど苦痛なことはないから。ナイフで切られるような痛みを覚える。けれども怒った顔をするのはばかばかしい。実際私にはちょっと説明の出来ない一種の敏感があって、いかなるものでも賞讃されているに耐えられない。また真実の感動の印象のもとにあることを発見されるに耐えられない。これは実に説明しにくい。
 私の考えによると、私たちは私たちを感動させたものについて、完全に私たちの思想と共鳴する人たちとのみまじめな話が出来る。人がよく話の出来るのは……、そうだ、私がよく話の出来るのはジュリアンである。彼は愚人ではないから。けれども皮肉になるまいとして、こっけいな調子を無理にまじめに話そうとするために、いつも誇張が加わる。もっともそれはわずかなものではあるかも知れないが。しかし人に深い印象を与えるように、また自分の感じたとおり単純にかつまじめに言い表そうとすること、それは自分が完全に愛している人を除いては、想像することも出来ない。……何となれば、今私がある同情のない人にそれを話しうると仮定しても、そんな風にして作られた連鎖は後になると非常に不自然なものであったことが分かるだろうから。……同時にまたある間違ったことを行ったような風に思われるであろうから。
 でなければ、むしろパリ風に取り扱わねばならぬ。そうして芸術方面の話ばかりして、あまりに詩的に見えるような、気取った言葉遣いをばしないで、並木町の通語を使って、店屋の話でもしなければならない。敏感と精妙、そうしてこれは「強い、これはあなたの見るうちで一番素的なものです」と言ったりするのである。
by bashkirtseff | 2009-11-17 07:54 | 1881(22歳)
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