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1880.10.09(Sat)

 今週は何にもしなかった。怠惰は私をばかにしてしまう。私は日記を繰り返してロシアの旅のところまで読んだ。そうして非常に面白かった。ロシアで私は Mademoiselle de Maupin を、半分まで読んだ。そうして私には面白くなかったから、今また読み直してみた。なぜと言うに、テオフィル・ゴーティエ(底本:「ゴオチエ」)は驚くべき才能の人と言われているから。そうして Mademoiselle de Maupin は、ことにその序文は、傑作と言われているから。さて、今日読み返してみたが、序文はもちろん非常に良いが、しかしその作品はどうだろう? ……それはあらゆる裸体にもかかわらず、面白くなく、その中のある部分のごときは退屈でたまらない。私は人々が、何という言葉のうまい言い回しだろう? うんぬんというのを聞く。ええ! もちろんそれは良いフランス語である。才能ある人の作品である。けれどもそれは同情ある才能ではない。……しかし、私もその内には何故にそれが傑作であるかが分かってくるだろう。私は今それが非常に良いものだと言いたくはない。むしろそれは嫌なものであって、私を悩ます。
 ジョルジュ・サンドも同様である。……私が少しも同情を感じない今1人の作家である。そうして、ジョルジュ・サンドはゴーティエに比べて、人を尊敬させる力強さと大胆さがはるかに少ない。ジョルジュ・サンドは……まあ、良いとしておこう。現代の作家の中では私はドーデ(底本:「ドオデエ」)が好きである。彼の作品は無論小説ではあるが、その中には正しい観察と真実の自然と忠実な感情とがいっぱいに満ちていて、その性格は皆生きている。
 ゾラに対しては私は親しみを感じない。彼は「フィガロ」でランク及びその他の共和党員を執拗に攻撃している。それは彼の偉大なる才能及びその高い文学的地位に似合わしくない悪趣味である。
 しかし私たちはジョルジュ・サンドの中には何を見るか? 美しく書かれた小説か? しかり、しかしそれ以上のものは? 実に彼女の小説は私を悩ます。バルザックと、2人のデュマと、ゾラと、ミュッセ(底本:「ミュッセエ」)とは決して悩まさないが。ヴィクトル・ユーゴーも彼のもっともロマンチックな狂的な Han d' Islande の文章においては、決して人を疲らせないで天才を感ぜしめるが、しかしジョルジュ・サンドはどうだろう! ヴァレンティーヌ(底本:「ヴァレンチイヌ」)やベネディクト(底本:「ベネヂクト」)や伯父や庭男や、そういったような人たちの挙動やら態度やらで満たされた300ページをどうして読み通すことが出来るだろう?
 いつも愛によって社会を平均するということ、それは卑しむべきことである。
 平等が建設されるというのは良いことであるが、しかしそれは性的の気まぐれから来てはならない。伯爵令嬢がその従僕を愛したからといって、それで議論をする。これがジョルジュ・サンドの才能である。確かに皆自然の美しい描写を持っている美しい小説ではある。けれども私はそれ以上のものを望む。……どうしたらそれが出来るかは私には分からないが。……人はそんなものを信じることは出来ない。私はいつでも自分が卓越した人に話しかけているように想像して、その人たちの前では繕った話し方をすることを恐れている。しかるに世間には平凡なまた劣等な人間ばかりがいて、つつましさをも知らねば弱いと言って自白する心持ちをも理解しない。
 さて私は今「ヴァレンティーヌ」を読んでいるが、それは私の神経をとがらせる。なぜと言うに、この本は興味があって一気に読んでしまったが、同時に私はそれから何物をも得なかった、おそらくは単に無益なる不愉快な印象のみを得た、と感じたから。この本を読んで私は下等にされたような気がする。私はそれに反抗しながらも読み続けた。なぜと言うに、それは同じ作者の Dernier Amour と同じように終わりまで読まないでおいた方がかえって退屈であるから。しかし「ヴァレンティーヌ」はジョルジュ・サンドのもので私の読んだ内の最上の作品である。Le Marquis de Villemer も良い作品である。私には伯爵令嬢を愛する従僕があろうとは思えない。
by bashkirtseff | 2009-02-03 17:49 | 1880(21歳)
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