1884.06.17(Wed)

 相変わらずセーブルへ。嫌でならないのは、私は毎日熱がある。太る方法とてもない。……それでも私は日に6、7杯も山羊の乳を飲んでいる。
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# by bashkirtseff | 2012-05-19 11:53 | 1884(25歳)

1884.06.17(Thu)

 私の絵には悩まされてしまう!! まだ両手を描かねばならない! ──あの花の咲いたリンゴの木やスミレの花、それがもう私の興味を引かない! そうしてあの仮寝している百姓女! こんなものは1メートルくらいの画布で十分だ。それを私は等身大に描いている! 間違った! そうして3月も水に流してしまった! ……
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# by bashkirtseff | 2012-05-19 11:52 | 1884(25歳)

1884.06.16(Mon)

 今夜私たちはサラ・ベルナアルを見がてらに、マクベス(リシュパン訳)を見物に行く。ガヴィニ夫妻が私たちと同道する。
 私はあまり芝居に行かないので、面白い。しかし俳優の声張り上げた朗読が私の芸術的感覚を傷つける。あの人たちが自然に語るのであったなら、どんなに美しかろう。おお! 朗読! マレエ(マクベス)はところどころは良い。しかし実に虚構で、実に芝居じみた音調がつい知らず彼の口から漏れてくるので、情けなくなる。サラ、彼女は、依然として驚嘆すべきものである。黄金の声が当たり前の声になってしまったけれども。
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# by bashkirtseff | 2012-05-19 11:51 | 1884(25歳)

1884.06.14(Sat)

 母の誕生日で大勢社交界の人たちが集まる。私は優美である! 白絹のムスリイヌの胴衣(ジレ)に、灰色がかった琥珀の、非常に純粋なルイ16世式の長衣(ローブ)。
 私はセーブルへ行った。でもすぐ帰ってきた。そうして良いモデルを一人連れてきた。ええ! モデルが本当の田舎娘でないから、私はやはり私たちの皿洗いの女を再び採用するとしよう。あのアルマンヂイヌでは間に合わない。あれでは彼女がエダン・テアトルでダンスをしたような感じを出してしまう。
 要するに、人間の心を描くことを主張している私は、こうして百姓女の着物を着た一人のかわいらしげな町の女を描き上げてしまうかも知れない。私には、あの、暑さに苦しんで、夢見ている、そうして最初に出会った百姓にいきなり参ってしまうといったような、そうした本当に愚鈍な、背丈のある女が必要なのである。で、このアルマンヂイヌは、理想的に愚鈍なところのある女である。私は彼女にしゃべらせる。
 そのばからしさに腹を立てさせられないときは、それが面白い。皆が親切な好奇心を持ってそれを傾聴する。そうして私は性行を瞥見するのである! ……そうして私はその瞥見したところを自分の直覚力をもって完全なものにしてしまう。私の直覚、はばかりなく言うと、それは特異なものであろうと私は思っている。
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# by bashkirtseff | 2012-05-19 11:45 | 1884(25歳)

1884.06.10(Thu)

 ああ、市街は何というおもしろさだろう! 人の容貌、各人の特徴、そうした見知らぬ人たちの間を縫って歩くこと。
 すべてのものを生かす、と言うよりもむしろ各人の生活を捕まえることだ! 皆パリ人をモデルに使って、かつて見たこともない古ローマの格闘士の格闘を描いたりする。──なぜパリの平民を使ってパリの闘士をば描かないのか? 5、6世紀もたったら、それも古代めいてくるだろう。そうして未来の愚か者どもが、それを尊崇するであろう。
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# by bashkirtseff | 2012-05-19 11:40 | 1884(25歳)

1884.06.08(Sun)

 私は見え得るだけ、またこれまで見え得た限り、実によく見えた。衣装は目を奪うばかりに美しい効果を見せた。──そうしてその容姿は、ニースにおけるがごとく、あるいはローマにおけるがごとく、再び花咲き出でた趣であった。
 私を毎日見ていた人は、あきれていた。
 私たちは少し遅れて着いた。マダム・フリドリクが大使夫人(ランバサドリヌ)のそばにいなかったので、母は大使夫人と数語の挨拶を交わす。私は非常に落ち着いていて、非常に和やかな心持ちである。……近づきの人たちも少なくはない。ガヴィニ家で落ち合ったマダム・A…は、私には挨拶をしなかったのに、今はあでやかに挨拶しかける。私はガヴィニの腕を取る。勲章(コルドン)ひもや勲章を飾っている彼はいかにも立派である。彼は私をイタリ行使メナブレアに紹介し、私たちは美術について語る。次いでムッシュ・レセプスが育児について、子供について、またスエズの配当等について、私に長い話をして聞かせる。私たちはかなり長い間彼と一緒になっている。セブロオが私に腕を貸した。
 大使館員だとか、随員だとかいったような、他の人たちをば、私は勲章をいっぱいつけた老人連に任せて捨てておく。
 少したってから、その自負心に相当の犠牲を払って、私はそこにいた画家連と話をする。彼らは非常に私に好奇心を持って、いずれも自己紹介をする。しかし、私の絵はすべて私一人で描くのではないと彼らが思い込んでしまうだろうと思われるくらい、私は実に美しく、実に立派な身なりをしていた。そこにはセルメチフ、レエマン、これは相当の年配で、非常に同情的で、ある種の才能ある人、およびエデルフェルト、これも才能ある人、──かなり野卑ではあるが、美しい若者で、ロシア系のフィンランド人、これらの人たちがいた。要するに、非常に結構だった。何よりも第一のことは、美しくあることである。すべてがそこにある。
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# by bashkirtseff | 2012-05-19 11:39 | 1884(25歳)

1884.06.07(Sat)

 皆が今晩の厳粛な準備を黙ってしている。
 これが私の着物である。白絹の薄衣(ムスリイヌ)。組み合わせになった二つの黒紗(ドラブリ)で出来ている胴衣(コルサアジュ)は、肩の上でその黒紗の端が結ばれている。袖は短く、やはり結び目になったムスリイヌの切れで出来ている。非常に広い繻子の帯は、後ろで結んで翻るようになっている。腰袴(ジュウヴ)は左から右へ飾りのついた黒紗で出来ていて、裾まで垂れている。後ろには、二重にひだの取ったムスリイヌの2つの切れがあって、一方はまっすぐに床まで垂れ、他方はそれよりも短い。髪には何にもない。あっさりした白靴。その総体が目を奪うばかりに美しい。これでは髪はプシッセに結ばなければならない。私は衣装は極端に優美だと思う。前の方の黒紗なんかは夢のようだ。それは実に簡素であって、そうして実に繊巧であるから、私はきっと美しくなるに相違ない。母は非常に長い垂れ裾にダイヤモンドの輝いた、黒玉で覆われた黒の浮き織り(ダマス)の衣装を着ることになっている。
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# by bashkirtseff | 2012-05-19 11:34 | 1884(25歳)

1884.06.06(Fri)

 大使館の夜会(ソアレ)のことがひどく私に気あつかいさせている。私は何か間違ったことが起こらねば良いがと心配している。私には何か良いことがあるとは信じられない。……それは、いかにも良さそうには見える。しかし結局は何か起こるであろう、何かの差し障りが。私は長い間そんなことを思い巡らせながら泣いた。
 私たちはサロンへ行った。私は、授賞された絵を見るために。そうして私たちはトニー・ロベール・フルリに落ち合ったので、私は第2賞牌を得ている絵の前で、もし私がこの通りに描いた絵を彼のところへ持って行ったとしたら、彼は私にどう言うだろうかと聞いてみた。
 ──そしたらまず第一に私は、あなたにこのような絵をお描きになるのを十分お慎みなさるよう希望します。彼はまじめにそう私に答えた。
 ──それでいて第2の賞牌とは?
 ──さよう! しかしこれは実に長い間出品している男なのです。だから……あなたにもお分かりでしょう。
 何という平凡の集積だろう! 何という意気地なさだろう!
 賞牌を得ている絵と言えば凶暴なものさえもない。いずれを見ても、その大部分が、ただいたずらに平凡であるか拙悪であるかというに過ぎないものばかりである。その外のものとても。……要するに、今年はひどく悪い。
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# by bashkirtseff | 2012-05-19 10:37 | 1884(25歳)

1884.06.05(Thu)

 プラアテが死んだ。1870年にヴィエンヌで買ってもらって、彼は私と一緒に大きくなった。彼は生後3週間だったが、いつも行李の後ろの、私たちの買い物の包み紙の間に丸くなっていた。
 彼は献身的な忠実な私の犬だった。私が外出すると泣きながら、窓のところに座り込んで幾時間も待っていた。次いでローマで、私はもう一匹の方の犬が好きになると、プラアテは母に引き取られたが、その獅子のような黄色い毛並みで、涼しい目をして、いつも私にひどく嫉妬していた。私は自分がどんなに不人情であったかを考えると! ……
 新しい犬はピンチオと呼ばれた。そうして私は彼をパリで盗まれた。私は慰めがたき思いをしているプラアテに戻る代わりに、第一のココ、次いで現在のココを手に入れるような心なしな業をした。それは卑怯であり、無恥であった。この4年間、その2匹の動物は噛み合ってばかりいた。そうしてとうとうプラアテは階上の1室に閉じ込められ、そこで囚人みたような生活をしていた。するとココの方は、テーブルの上やら人の頭の上までも跳ね回っていた。プラアテは老衰して死んでしまった。昨日から私は2時間ばかり彼と共に過ごしてやった。彼は、私の方へ体をにじり寄せて、私のひざの上に頭をのせていた。
 ああ! 私は優しい感情を持った愛らしい浅ましい女である。あぁ! 軽蔑すべき性格の私はこれを書きながら泣いている。そうして私はこの涙の跡が、これを読む人たちの側から、私にも優しい心はあったという評判を得るだろうと思われる。私は始終不幸せなあの動物を再び取り立ててやろうと思っていた。そうしてそれはいつも、砂糖の一塊か通りすがりに頭を一つなでてやるだけにとどまっていた。
 そのときの彼のしっぽを見せてあげたかった。その断ち切られた哀れなしっぽは振り動かし振り動かされて、空中に円形を描き出しているほど迅速に回転された。
 彼はまだ死んだのでなかった、あの不幸な犬は。私がそう信じたのは、彼が彼の部屋にいなかったからである。彼は以前ヴィエンヌにいたときのように、行李の後ろか浴槽の陰へでも這い込んでいたのであろう。私は誰かが私に言うのを恐れて、そうしている彼を連れ去ったのだと考えた。……しかしそれにしても、今夜か明日のことであろう。……
 トニー・ロベール・フルリが私の泣いているところへ来た。私は彼に、絵の複製に関する事柄を尋ねる手紙を出しておいたので、それで来てくれたのである。それによると、他の者たちには私の絵の複製を禁じ、また私に対しては訴訟を提起することが出来るような、そうした小さな紙片に私は署名する手数を省いたように思われる。あなたにはお分かりでしょうが、私はそうして皆が特許を乞うてくるので得意になっている。だから、私は訴訟事件にすら得意を感じさせられるかも知れない。
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# by bashkirtseff | 2012-05-19 10:34 | 1884(25歳)

1884.06.01(Sun)

 こうしたことばかりで、私はひと月この方というものは何にもしていない! そうだ、私は昨日の朝からシュリ・プリュドム(詩人、このとき45歳)を読んでいる。私は彼のものを2冊持っている。そうして非常に良いと思っている。……

 私は詩句には余り拘泥しない。それは出来が悪い時には私は悩まし、私を苦しめる。私にとっては、表現されている思想があるばかりである。──もし押韻することが好きだというなら、いくらでも押韻させるが良い! 何も私がそれを眼中に置くことはない。さてシュリ・プリュドムの実に微妙な思想は無限に私の気に入る。そうして彼には非情に気高い、ほとんど抽象的と言っても良い、非常に繊巧な、非常に精髄にふれた一面がある。そうしてそれは完全に私の物の感じ方と一致する。
 私は、時には安楽椅子に横臥したり、また時にはバルコンを歩き回りながら、リュクレエス(ローマの詩人ルクレティウス(底本:ルクレチウス)、その翻訳をシュリ・プリュドムが出した)の序文と本文とを読んでいる。De natura return.(ルクレティウスの哲学的な詩、不滅を否定し、平静な心的状態を賛美してある)それが何であるかを知る人たちは、私の意のあるところが分かってくれるであろう。……
 そのすべてを了解するためには、非常なる精神上の緊張が必要である。これは難しい本であるに違いない、こうした主題を扱いつけている人たちに取ってすらも。私にはすべてよく分かった。それが時としては逃げ出して行ってしまった。しかし私はそこへ後戻りすると、再びそれを捕捉しようと努力した。……私は自分がかなり苦労をして捕まえているような様々な事柄を書いているシュリ・プリュドムを、大いに尊敬すべきである。
 そうした様々の思想の取り扱いは、ちょうど私が絵の具を扱うように、彼には慣れているのである。
 それで彼もまた私に対して神聖な尊崇の念を寄せてもしかるべきである。なぜと言うに、反感的(アンチバチック)なテオフィル・ゴーティエが言ったごとく、若干の泥絵の具をもって、私は人間のいろんな感情を表している顔や、またはその中に自然や、樹木や、空気や、遠景やらの見られる様々の絵を描いているのであるから。──彼は人間の思索の機械の中を無益なほじくりをしながら、自らもって一画家より千倍も優れていると信じているに違いない。彼は彼自らにまた他の人たちに何を教えているだろう?
 精神はいかに働いているか? 知的であり、急速で補足しがたいそのすべての動作に様々の名前を与える。……哀れむべき無知な女なる私はと言えば、私はそうした巧緻な哲学は何人に対しても何事をも教えないであろうと考える。それは一つのほじくりである、微妙な難渋な一つの娯楽である。しかし、なにゆえか? 様々の名誉をものする天才が作りなされるのは、そうした一切の抽象的な霊妙な物に名前を与えることを学んで得られるのであるか? あるいはまた、世界の先頭に立って思索する異常な人間たちが作り出されるのも、そうしたことを学んで得られるのであるか? それからまた、人間は、自分と交渉する限りにおいて事象を知り得るのみである、などと、彼は言っている。
 私のこの文章を読む人たちの大部分には、それは何にもならないであろう。けれども私は、なお次の文を引用しよう。──"Norte science ne peut done excéder la connaissance de nos catégories appliquée à nos perceptions."〔かるが故にわれわれの科学は、われわれの知覚に当てはめられたもろもろの範ちゅうの認識を越ゆることは出来ない。〕そうだ、明らかに私たちは私たちに分からない以上のことを分かるわけには行かないのである。それは明白である。
 もし私が合理的な教育を受けていたならば、私は非常に著名な人物になっていたかも知れない。私は何もかも自分一人で学んだ。私はニースで、中学の先生たちと一緒に勉強する私の研究の案を一人で作ったが、彼らはそれに驚いた。半分は直覚によって、半分は私が読書したことによって、私はかくかくの事柄を知りたいと思った。こうして私はギリシャ語と、ラテン語と、フランスとイギリスの古典近代の文学、あらゆるものを読んだ。
 しかしそれは一つの混沌である。私はすべてのものの中にある調和を愛するの念から、それを皆整理しようとは努めているけれども。
 シュリ・プリュドムというこの名前は何者であるか? 私が彼の著作を買ったのは6カ月前である。そうしてそれを読もうとしてみたが、私はそれを面白い詩だと思って放てきしておいた。しかし今日では私は私の心をとらえるに様々な事柄をその中に発見している。そうして私はフランソア・コッペ(小説家、当時42歳/この年学士院に入った)の訪問に端を発して、それを一気に通読した。しかしコッペは彼についても、何人についても、語りはしなかった。ではどういう関係があるのか?
 非常な大努力をもってすれば、私は、明らかにこの知的な作物を哲学的に解読できるであろう。しかし何になるだろうか? 私の考えたことは変化するであろうか?
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# by bashkirtseff | 2012-02-04 23:44 | 1884(25歳)