1873.03.14(Fri)

 けさ、リュ・ド・フランスで馬車の音が聞こえたから、外を見ると、公爵ド・H…がプロムナードの方へ四頭立てを駆っているところだった。ああ、あの人がまだここにいたのならば、きっと4月のハト打ち(射撃の競技)には出るだろう。私はぜひ行ってみたい!
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# by bashkirtseff | 2004-10-07 23:12 | 1873(14歳)

日付なし

 マダム・ホワード(底本:「ホワアド」)に昨日私たちは招待されて、彼女の子供たちと一緒に昼間を過ごした。私たちが帰ろうとしていると、彼女が戻って来て、母様にお会いして、私たちを夜までとどめて置くようにお許しをもらってきたと言った。私たちは居残って、食後にみんなして大きな客間へ通った。客間は暗かった。娘たちは私にたくさん歌って下さいと言って、私の前にひざまずいた。子供たちも同じようにした。私たちはずいぶんと笑った。私は「サンタ・ルチア」と「日は上れり」と、それからルラード(底本:「ルラアド」)を幾つか歌った。みんなが非常に喜んで気違いみたいになって私を抱いた。もし公衆の前でもあれだけの感銘を引き出し得るなら私は今日すぐにでも舞台に立ちたいと思った。
 衣装よりほかのことでほめられるのは非常な感動を起こすものである! 本当に私は子供たちからあれだけほめられてもうれしかった。だから、もしほかの人にほめられたら? ……
 私は勝利と感動のために造られている。それ故に私の出来ることのうちでの最上のことは歌う人になることである。もし神様が私の声を保存し、強め発達させて下さるならば、私は自分の望む通りの勝利が得られるだろうと思う。そうしたらば私は有名になって褒められるという幸福をも得られるだろう。そうなれば私は私の愛する人を自分のものにすることも出来るだろう。今のままであったならば私はあの人に愛してもらえる望みはほとんどない。あの人は私の存在さえ知らないのである。けれどもあの人が光栄と勝利に包まれている私を見たらばどうだろう! ……人間は功名心が強い。……それで私は社交界に迎えられるだろう。なぜというに、私はたばこ店や、怪しげな町から出てえらくなった人間ではないから。私は貴族の生まれである。私は境遇がそれを要求しないから、自分の才能を利用する必要はなく、自分を高めれば、ますます大きな名誉が得られ、そうしてそれがますます容易になるであろう。そういう風にして私の生活は完全になるであろう。私は光栄と、名誉と、全世界に知られることを夢見ている!
 あなたが舞台に現れると、何千人という人が並んで胸をときめかせながら、あなたの歌い出す瞬間を待ち構えている。あなたがその人たちを見ると、あなたの一声で今にみんなを足元に引き寄せることが出来るということがわかる。それで威張った目つきでその人たちを眺めてやる。(私にはなんでも出来るから。)──これが私の夢である。これが私の生活である。これが私の幸福である。これが私の欲望である。それから、その中に交じってモンセニョール(底本:「モンセエニョ」)・ル・公爵・ド・H…が、ほかの人たちと一緒に私の足元にひざまずく。けれどもその人だけはほかの人と同じようには扱われない。ねえ、あなたは私の輝かしさで目がおくらみになったでしょう。そうして私を愛してくださるでしょう。あなたは私があらゆる光栄に包まれているのを見てくださるでしょう。──あなたばかりは本当に私のなりたいと思っているような女を妻となさるにはふさわしい方です。私は醜くはありません。いいえ、私はきれいです。どっちかと言えば、きれいです。私は彫刻のように完全な良い体をしています。私は髪の毛も相当にきれいです。私は人をまよわすような身ぶりも出来ます。男に対する仕向け方も私はよく知っております。
 私はつつましい少女だから、自分の夫になる人よりほかの男には決して接吻(せっぷん)しない。私は12から14まで位の少女は誰も言えないようなあることを誇りとして言い得る。それは男に接吻されたこともなければ、また男に接吻したこともないという誇りである。──それで、女で達せられる限りの最高の名誉の頂点に立っている一人の若い娘が、子供の時から、単純な、つつましい、変わらぬ愛を持って自分を愛していたということを知ったならば、あの人は驚くだろう。あの人はどんな価を払っても私と結婚したいと思うだろう。そうして誇りを持って私と結婚するであろう。しかし、私は何を言っているのだろう? なぜ私はあの人に愛されるようになるだろうと言えないだろうか? ああ! 言えるとも、神様のお助けさえあれば。神様は私の愛している人を私のものにする方法を、私にみつけさせて下さったのだもの。……ありがとう、おお、私の神様、ありがとう!
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# by bashkirtseff | 2004-10-07 23:11 | 1873(14歳)

1873(日付なし)

 1月(12歳)。──ニース(底本:「ニイス」)〔フランス〕、プロムナード・デ・ザングレ(底本:「プロムナアド・デザングレエ」)、別荘(ヴィラ)アッカ・ヴィヴァ。

 叔母(タント)ソフィが小ロシアの曲をピアノで弾いているので、それが私に田舎の家を思い出させる。私はそこへ運び去られた。そうして、どんな思い出の、亡くなった祖母様(グランママン)にかわりのないことを、私は思い出し得るか? 涙が目にまで上って来て、いっぱいに溜って、今にも流れ出しそうになる。もう流れ出した。……気の毒な祖母様! あなたがもうそばにいなくなったので、私はどんなに不幸でしょう! あなたはどんなに私を愛してくださったでしょう、そうして私はあなたを! でも私はまだ小さくてあなたを十分に愛して上げることが出来ませんでした! そんなことを思い出すと私は心を深く動かされます。祖母様の思い出は、尊敬すべき、神聖な、愛情のこもった思い出ではあるが、それは生きた思い出ではない。──おお、神様、どうぞ私にこの世で幸福をお恵み下さい。そうすれば私はうれしゅうございます。でも何を私は言っているのでしょう? 私には、自分が幸福であるためにこの世に生まれて来たように思われます。どうぞ幸福にしてください、おお私の神様!
 叔母ソフィはまだ弾いている。その音が間を置いて私の所まで聞こえて、私の心を貫く。今日は叔母ソフィの祝日(自分の名前の由来した聖徒の祭日)なので、私は明日の予習する日課がない。おお私の神様! 公爵H(アッシュ/イギリスのある公爵)を私のものにして下さいまし! 私はあの人を愛してあげます、そうして幸福にしてあげます。私も幸福になります。私は貧しい人たちに親切にしてやります。善行で神様のお情けが買えると思うのは罪深いことです。でも私はそれより他に言い表し方を知りません。
 私は公爵H…を愛している。けれどもそれをあの人に打ち明けることが出来ない。打ち明けたところであの人は少しも注意を払って下さらないでしょう。あの人がここにいたころは、外へ出るにも、着物を着るにも、私には目的があった。けれども今はどうでしょう! ……そのころ私は遠くからでもあの人を一目見たいと思ってよくテラス(底本:「台地」)へ行った。私の神様、私の悲しみを和らげて下さいまし。私はお祈りをすることは出来ません。でも、私のお祈りを聞いて下さいまし。あなたのお情けは無限です。あなたのお慈悲は広大です。あなたは私にいろいろなお恵みを与えて下さいました! でもあの人をもうプロムナード(底本:「遊歩場」)で見られなくなったことは私を悲しませます。あの人の顔はニースの粗野な顔の中ですぐに見分けがついておりました。
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# by bashkirtseff | 2004-10-03 22:58 | 1873(14歳)

 欺いたり気どったりして何になろう? 本当に、私はどんなにしてもこの世の中に生きていたいという、望みはないまでも、欲望を持っていることは明らかである。もし早死にをしなかったら、私は大芸術家として生きていたい。しかしもし早死にをしたらば、私のこの日記を発表してもらいたい。これはおもしろくないはずはない。──けれども私が発表のことを言ったりすると、読まれたいという考えがあるいはすでにこういう書の唯一の価値を傷つけ破りはしまいか? いや、決して! ──なぜというに、第一、私は長い間読まれたいという考えなしに書いていた。次に、私があくまでまじめであるというのも、つまりは読まれたいと思うからである。もしこの書が正確な絶対な厳正な真実でないならば、存在価値(レーゾンデートル)はない。私はいつもただ私の考えているだけのことを言うのみではなく、またあるいは、私をこっけいに見せるかも知れず、私の不利益となるかも知れぬことをも隠そうと思ったことはなかった。──その他の点では、私は非難されるには自分が余りに立派だと思っている。──それ故に、厚意ある読者よ、私はこの書において全く完全に自分をさらけ出すのだと信じてください。私というものは、個人的には、あるいは、あなたにとってあまり興味はないかも知れません。しかし、それが私だと思ってはいけません。こう思ってください、ここに1人の人間があって、子供の時からのすべての印象をあなたに話すのだと。それは人間の記録(ドキュマン・ユマン)としておもしろからぬはずはありません。ムッシュ・ゾラにでも、ムッシュ・ゴンクウルにでも、またはモーパッサン(底本:「モオパッサン」)にでもお聞きなさい。私の日記は12歳の時に始まって、15、6歳からいくらか価値を持ち始めます。だから埋めらるべき空虚があるわけです。それで序文のようなものを書き添えて、読者をしてこの文学的な人間的な記録をたどるに便利ならしめようと思います。
 まず、私を有名だと仮定してください。これから始めます。
 私は1860年11月11日(#露歴。西暦では+12日で11月23日であるとか、24日であるとか諸説ある)に生まれた。これを書くだけでもおそろしくなります。しかしあなたがこれを読むころには私はもう年というものがなくなっているのだと思いついて自ら慰めています。
 私の父は将軍(ゼネラル)ポオル・グレゴリエヴィチ・バシュキルツェフの息子で、地方の貴族で、勇敢な、頑固な、過酷な、かつ凶暴な人であった。私の祖父はクリミア戦争(底本:「クリメエ」)の後で将軍になったのだと思う。彼はある高官の養女であった1人の若い娘と結婚した。彼女は38歳で死んで、5人の子供を残した。私の父と4人の姉妹とを。
 母は21の年に結婚した、それまでにずいぶん良い縁組(パルチ)を幾つもことわって。母の処女名はババニヌであった。ババニヌ家の側からいうと、私たちは地方の古い貴族ということになる。祖父はいつも自分が韃靼(だったん)人の流れで、最初の侵入(1238年)の時からの家柄だと言って誇っていた。ババ・ニナは韃靼の言葉である。しかし私はそんなことは笑っている。……祖父はレルモントフ(1814-1841)やプーシュキン(底本:「プウシュキン」/1799-1837)などの同時代人であった。彼はバイロン賛美者で、詩人で、軍人で、文士であった。彼はコーカス(底本:「コオカス」)にいたことがあった。……彼はまだ非常に若いころに、芳紀15の、非常にやさしくて美しい、ジュリ・コルネリアスという少女と結婚した。彼等は9人の子供を持った。少ないけれど許してください!
 結婚して2年後に、母は2人の子供をつれて両親の所へ帰った。私はいつも祖母と一緒であった。祖母は私を大事にしてくれた。祖母の例に倣って叔母も、母につれて行かれない時は、私をかわいがってくれた。叔母は母よりずっと若かったが、美しくはなかった。そうしてみんなのために犠牲になったり、犠牲にされたりしていた。
 1870年の5月の月に、私たちは外国の旅へ出た。母の長い間の夢がついに実現されたのであった。ヴィエンヌで私たちはひと月をすごして、新奇なものや、きれいな店や、劇場で目を覚まされた。それからバーデン・バーデン(底本:「バアデン・バアデン」)に着いたのが6月、季節(セエゾン)のさかりで、華美の盛りで、パリ風の盛りであった。私たちの一行は、祖父、母、叔母ロマノフ、ヂナ(私の従妹)、ポオル(マリの弟)、及び私であった。ほかに私たちは天使のような比類のないルシアン・ワリツキという医者をつれていた。アクチルカで彼は開業していた。以前母の弟と一緒に大学に学んで、いつも家族同様にされていた。私たちが旅に出る時、祖父のための医者が必要なので、ワリツキをつれて行くことにしたのである。それはバーデンであった。私が世間を知り、華美を知ったのは、そうして虚栄に苦しむようになったのは。……
 しかし私はまだロシアのことも、私自身のことも、それが一番主なことであるのに、何にも言ってなかった。貴族の家庭の習わしとして、私には2人の家庭教師が付いていた。1人はロシアの婦人で、今1人はフランスの婦人であった。前者(ロシア婦人)は、今でもよく覚えているが、マダム・メルニコフとかいって、教養のある、ロマン的(ロマネスク)な、立派な婦人で、夫と別居していたが、小説をたくさん読んでから教師になったのである。彼女は家族の友だちとなり、家族同様の取扱を受けていた。男はみんな彼女にこびを送っていた。するとあるうららかな朝彼女は逃げた、私は知らないが何かのロマン的な事件があった後で。──ロシアではみんな実にロマン的である。──彼女はさよならを言って、いつものような風で去ろうと思えば、そうすることも容易に出来たであろう。しかしスラヴの気質がフランスの文明とロマン的の読書で接木されると変わり種になってしまう。この婦人は不幸な妻の持ち前として、自分の監督すべき少女をすぐにかわいがるようになってしまった。私は戯曲的に適当なある本能的の感情でそのかわいがりに報いていた。それでposeuse〔気どり屋〕であり単純であった私の家族の者たちは、彼女がいなくなったので私が病気になるだろうと思った。その日はみんなが同情の目で私を見た。私は祖母が特別に私のためにスープを、病人用のスープを、こさえさせたのを覚えている。私はそんな感情を見せつけられると、いつも自分で青ざめてしまうのを感じた。私は、実際、どっちかと言うと、病身で、脆弱(ぜいじゃく)で、少しもきれいではなかった。──と言って、それがために、私が将来美しい輝かしい立派な女になる運命があると考える人の邪魔にはならなかった。母はある時1人のユダヤ人の占者の所へ行った。
 ──あなたにはお子さんが2人おありです。占者が母様(ママン)に言った。お坊ちゃまの方は人並みの方になりますが、お嬢さまはえらい方におなりです。
 ある晩、劇場で1人の紳士が笑いながら私に言ったことがあった。──
 ──お嬢さま、ちょっとお手を拝見させてください。ははあ、この手袋のはめ方で見ると、あなたは今に大変な男たらしになりますね。
 私はこう言われたのが長い間得意であった。私は物心がついて以来、3つになって以来、(3歳半になるまで私は乳を離れなかった、)私はいつも何かえらい者になろうという心持ちでいた。私の人形は王とか女王とかばかりであった。私の考えることも、母の周囲の人たちから聞くことも、皆、今に私がきっとえらくなるというようなことに関連していた。
 5つのころであったが、ある日、私は母のレースを着て、頭に花を付けて、客間に出て踊ったことがあった。私は踊り子のペチパになった。家じゅうの人たちがみんな私を見に来た。ポオルはほとんど顧みられなかった。ヂナは、愛するゲオルグの娘であったけれども、私に別にそねみも抱かなかった。──またこういう話もあった。ヂナが生まれると、祖母が私の手からヂナを取り上げて、ずっと自分の所へ置いていた。それは私の生れないうちのことであった。
 マダム・メルニコフの次に、私はマドモアゼル・ソフィ・ドルギコフという16の少女を家庭教師に持った。──神聖なロシアよ! ──その次に来たのはマダム・ブレンヌというフランス婦人で、青白い目をして、王政復古時代(17世紀後半)の風に髪を上げて、50の年と肺病のために悲しそうな顔つきをした人であった。私はその人が非常に好きであった。その人は私に絵を教えた。私は彼女と一緒に小さい教会堂の絵をかいたことがあった。実際私はいろんな絵をかいた。大人の人たちがトランプをして遊んでいる時に私は傍らに腰かけてよくその青いテーブル掛の上で絵をかいていた。
 マダム・ブレンヌは1868年にクリメエで亡くなった。小さいロシア婦人の家庭教師(ソフィ・ドルギコフ)は家の者同様の取り扱いを受けていたが、ある若い男と結婚することになっていた。その若い男というのは医者から紹介された人で、それまでに何度も間際まで来てははねつけられていたと言う話であった。今度は何もかもすらすらと運んでいた。ところが、ある晩、私がマドモアゼル・ソフィの部屋に入って行くと、彼女は鼻を布団の中に埋めて泣き崩れているのを見いだした。みんなが来た。私は叫んだ。
 ──あら、どうしたの?
 ついに、おびただしい涙とすすり泣きの後で、その気の毒な娘はどうしても、どうしてもいやだと言って、また泣き出した。
 ──なぜなの?
 ──だって、だって、私にはあの顔がきらいでならないんですもの!
 若い男は客間からこれを皆聞いていた。1時間後に、彼は行李(こうり)をまとめて、ひどく泣いて、帰って行った。それではねつけられたのが17度目ということであった。私は今でも、「あの顔がきらいでならないんですもの!」と言った言葉をよく覚えている。それは心の底から出た言葉であった。私は嫌いな顔をした人と結婚するのはどんなに嫌なことだろうということがよくわかった。
 それから1870年のバーデンへ話が戻る。戦争(フランスとプロイセンとの戦争)が宣言されたので、私たちはジュネーブ(底本:「ジュネエヴ」)へ逃げた。心の中で私は非常に不平で、いつかこの仕返しをしてやろうと思っていた。毎晩、寝る前に、私は小声でお祈りにこういう文句を付け足していた。
 ──私の神様、どうぞ私は疱瘡(ほうそう)にかからないようにお恵みください。私はきれいになるようにお恵みください。声もよくなるようにお恵みください。母様も長生きをするようにお恵みください!
 ジュネーブでは湖の縁にあるオテル・ド・ラ・クロウンヌに泊っていた。私は絵の先生を雇った。その人は模写する手本を持って来てくれた。──それは小さいchalets(シャシェ)(スイッツル特有の小屋)の絵で、窓が木の幹のようで、もっとも本当のchaletsの窓には似ていなかった。私は描くのはいやだと言った。するとその老人は、それなら窓から見た景色を写生しなさいと言った。そのころ、私たちは宿屋(オテル)を出て、モン・ブラン(アルプスの一つの峰、15781フィート)をまともに見る家を間借りしていた。それで私は念を入れてジュネーブとその湖の景色をかいた。描くのはそれきりで止めた。なぜだかは覚えていない。バーデンでは、写真を手本として肖像画をかかされた。そうして、それで滑らかにきれいにこさえ上げられて、みっともないと思った。……
 私が死んだならば、自分では著しく思われるこの私の伝記が人に読まれるであろう。(ただ1つの欠点はそれが普通と変わっているということである。)しかし私は序文とか出版社の前付けとか言うものが嫌いである。それがために私は善い本をかなりたくさん読まずじまいにしたことがある。そんなわけから、私は自分で序文を書いたのである。これとても、私の日記の全部を出版したらば省略してよいのである。けれども私は13歳の時から始めることにした。それ以前のものを入れると余りに本が大き過ぎると思うから。それに、読者はこの日記を読んで行くうちに以前のこともわかるだろうと思います。なぜというに、私はいろんな理由から時々過去へ帰ることがあるから。
 仮に、今、私が自分では死ぬことに気がつかないような病気に急にかかったと思って見てください。多分私は自分の危険を知らずにすむでしょう。内の者は私に隠して置くでしょうから。そうして私の死んだ後で、私の引き出しが捜されるでしょう。そうして私の日記が出て来ると、それを読んだ上で、引き裂いてしまうでしょう。するともう私のことはなんにも残らなくなってしまう。……なんにも、……なんにも、……なんにも、……私がいつも恐れているのはこのことである。生きて、大きな望みを持って、苦しんで、泣いて、もがいて、そうしてついに忘れられてしまうのである! ……忘れられて……まるで私というものが存在しなかったかのごとくに。私が有名になるほど長生きが出来なかったとしても、この日記は自然主義者にとっては興味あるものだと思う。世界中の人が誰一人読んでくれるものもないのに、読んでもらいたいというような風で、少しも包み隠す考えはなく、毎日毎日書いていた、ある一人の婦人の生涯の記憶が、おもしろくないはずはないと思う。なぜと言うに、私は自分に同情の心の強いことと、そうして何もかも皆書いてあることを知っているから。そうでなければ、何の必要から私が書きましょうか。実際、私が何もかも包まず書いたことは今にすぐわかるだろうと思います。……

パリにて、1884年、5月1日
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# by bashkirtseff | 2004-10-03 22:37 | 序(25歳)

凡例

・ この翻訳は1885年に小説家アンドレ・チュリエによって整理されたJournal de Marie Bashkirtseff(Paris : Bibliothèque-Charpentier)と、5年後にロンドンで出版されたマチルド・ブラインドの英訳と、及びニューヨーク(底本:「ニュウヨオク」)で出版されたメアリ・セラノの英訳と、これだけが元になって作られた。ただし後の方の英訳書はかなり勝手な抄訳であるからあまり参考にはならなかった。
・ チュリエはこの日記の著者を彼女の望み通り有名にしたが、しかしその編さんにはどの位の程度まで手入れされたかは全然不明であった。少なくともマリの書いた原稿の全部が印刷されなかったことは確実と信じられていた。約40年を経過して近頃ボレルという人の手で別の版が出された。チュリエの版は1873年(13歳)の回想から始まっているに対して、ボレルの新しい版は1877年(17歳)から始まっている。そうしてマリの原稿ではそこが第70冊と題されて、丁数は195となっている。問題はその前の69冊はどうなったかであるが、一説には13歳以前の回想の分はマリ自らが破り捨てたとも伝えられている。それなら13歳から17歳までの部分は原稿通りであるか、それともチュリエの手によって多数省略されているか、恐らく省略された個所も少なからずあるだろうと推定されている。
・ マリのフランス文は飾り気の少ない親しみの多い書き方である。彼女はロシア人であったから、もとより完全な立派なフランス文を期待しても無理であっただろう。そのことをば自分でも認めて、1876年4月19日のくだり(底本:「条下」)で弁明している。「私のフランス語には問題があるだろう。私は外国人である。けれども私の国の言葉で書かせると、私はもっとひどいものをきっと書いたであろう。」彼女はそういっている。
・ 日記の中の日付には時々書き誤りが発見される。それらは(必要な場合には注を入れて)原文のままにして置いた。
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# by bashkirtseff | 2004-10-03 22:28 | 凡例

はしがき

 これは1人の女の生活の記録である。
 マリ・バシュキルツェフが彼女の名前であった。ロシア風にかつ完全に言えば、マリア・コンスタンチノヴァ・ヴァスキルツェワというべきであるが、早くから郷国を見捨てて一個の世界人(コスモポリト)となり、殊にパリの生活を好んで、フランス語で話しフランス語で書いていた彼女は、自分の名前をもフランス流につづるのを常としていた。
 マリ・バシュキルツェフは1860年11月小ロシアのポルタヴァ(底本:「ポルトヴァ」)に生まれ、1884年10月パリで死んだ。生年24歳であった。彼女は早く死ぬためであったか、時間に対して最も敏感で、例えば1873年5月6日の日記には既に、

 私は13である。こんなに時間を空費していては、これから先どうなることだろう?

と嘆息している。満13歳の少女として、これはたしかに異常であった。誰しも自分の生きる日に限度のあることを意識することはあるが、彼女は常住不断にそれを意識して自分を鞭撻(べんたつ)した。1877年8月23日のくだり(底本:「条下」)には、

 私は直に18になる。18という年は35の人から見ればわずかなものであろうが、私にとってはわずかなものではない。

と言っている。この焦燥は彼女がこの世に強く生きようとする衝動から来ている。彼女は早くから自分を勝利と感動とのために造られた人間だとして意識していた。彼女はまず声楽家になって舞台の上の名誉を得ようと考えた。そうしてイタリアで修行をした。けれども彼女の声は激しい練習に耐えられないことを発見して、その希望をば捨てねばならなかった。その次に彼女は美術家になろうと志した。1877年7月14日(#1877年8月7日)の日記によれば、その時彼女は神のおぼしめしにより芸術家としての自信を抱いている。彼女はジュリアンの塾に通って、文字通りに夜を日に継いで絵をかくことに刻苦精励した。この努力はそれから7年間、彼女がこの世を去るまで続いた。その結果、1880年にはサロンに1つの肖像画を出し、それからは毎年出品して、最後の年には有名な「出あい」をもって成功した。1885年パリでマリ・バシュキルツェフの遺作展覧会が開かれた時、詩人フランソア・コッペエはその陳列目録に追想記を書いて、その中で特に「出あい」を傑作として称揚した。「出あい」の写真はこの翻訳の下巻に挿入される予定であるが、それを見ればほぼわかるであろうごとく、彼女の画風は写実的な所に強みがあった。それは彼女がゾラの崇拝者であったのをもっても推定されるように、当時のフランスの写実主義思想の影響と、及び彼女が特に見に行ったヴェラスケス一派の画風の感化であったに相違ない。
 マリ・バシュキルツェフはその製作のために命を縮めた数点の絵の外に、最も特筆すべき貴重な記録を残した。それがここに翻訳された日記(1873年──1884年)である。これは全く独特の書である。昔から多くの人によって書かれた日記の数はおびただしいものであるが、その多くは人に読まれることを期待しないような顔をして、その実ひそかに読まれることを期待して書かれたのに反し、この日記はあからさまに人に読まれることを期待して書かれてある所に特色がある。人に読まれることを期待しているから、それだけまた忠実に自分を写し出さねばならぬことを彼女は感じていたに相違ない。彼女自身の言葉によって、そのことをば判断してもらいたい。

 私は自分が将来どうなるかは知らないが、この日記だけは世界に残すつもりである。
 私たちの読む書物は皆こさえ物である。筋に無理があり、性格にうそがある。けれどもこれは全生涯の写真である。ああ! こさえ物はおもしろいが、この写真は退屈だ、とあなたはいうでしょう。あなたがそんなことをいうならば、あなたはひどく物のわからない人だと私は思います。
 私はこれまで誰も見たことのないような物をあなたにお見せするのです。これまでに出版されたすべての思い出、すべての日記、すべての手紙は、皆世界を偽るためのこさえ物に過ぎません。
 私は世界を偽ることには少しも興味を持っていない。私には包むべき政略的の行為もなければ、隠すべき犯罪の関係もない。私が恋をしようとしまいと、泣こうと笑おうと、誰もそんなことを気にかける人はありはしない。私の一番心にかかることは、出来る限り正確に私というものを表したいことである。(1876年4月19日

 出来る限り正確に自分を表したいというこの自己表現の衝動は彼女に早くから芽ぐんでいた。彼女は声楽家として、はた画家として、世界に名を上げたいと思った時でも、同時に日記に自分を書き留めて置いて自分の生活を不朽にしたいという考えをば忘れたことはなかった。それ故に、どんなに苦しい思いをしている時でも、どんなにうれしいことのある時でも、彼女は必ずまず親愛なる彼女の日記の所へ行ってペンを取った。自分を表わし書き留めることが彼女には楽しみであった。彼女は時としては徹夜するようにして書くこともあった。実際、彼女は日記を書くことによって自らを高めつつ進んだ。彼女は大勢の家族に囲まれて大事にされたが、常に心の孤独を感じていた。その孤独の唯一の慰謝者は実に日記を書くことであった。彼女は日記において常に自らと語っていた。
 彼女の父と母は彼女が8歳の時に別居することになり、彼女は母と叔母と従姉と祖父とその他家庭医、侍女等と共にロシアを見捨て、冬はフランスの南部海岸またはイタリアで暮らし、夏はドイツの山地で過ごし、その他の月日をば主としてパリで送った。彼女の性格に一見世界人らしいところの表れているのはそのためであろうが、しかしよくよく見ると、何といっても彼女はロシア人であった。彼女は日記の自序の中で、1人の家庭女教師について批評を下して、スラヴの気質がフランスの文化とロマンチックな趣味教育とで接ぎ木されると、1つの変り種を作り出すといっているが、それは彼女自らにも当てはまる批評である。
 彼女の日記を書く態度は、書いている女と書かれている女と、人格が二つに分裂しているかのごとき状態であった。彼女の半分は行為者で、他の半分は批判者であった。半分で芝居をして、他の半分でそれを観ているという有様であった。そうして芝居をしている方の半分はむら気な野心の強い女であったのに対して、観ている方の半分は冷静な無遠慮な批判家であった。彼女は隠れて自分の方へ向かって来るものを知りたがった。真実と知り合いになることは彼女にとって何よりの期待であった。それ故に、書かれている者の苦しみは書く者にとっては何でもないという奇妙な現象を、彼女は彼女自らについて体験している。(1877年5月30日。)
 マリが自己を観察して発見した物の1つは虚栄心であった。「虚栄(ヴァニテ)! 虚栄! 虚栄!」彼女は叫んだ。「すべての物の初まりであり、かつ終わりである。そうしてすべての物の永久のかつ唯一の原因である。」(1876年4月5日。)彼女の虚栄心は彼女を芸術の方へ追い立てた。彼女は美ぼうをも熱望し、自分の若い肉体の容姿に自信をも持ったが、しかし芸術家として自分を表すことの方に重きを置いた。それは芸術の方が彼女の虚栄心を永久に満足させ得るからであった。しかしひところは芸術家になるよりも女王になることを一層熱心に夢みていた時代もあった。
 彼女は虚栄心に次いで情熱を重く考え、「虚栄心と情熱とは世界のふたりきりの主人である」と思っていた。それほどまた彼女自ら情熱に富んだ少女であった。この情熱は後に固定した洩れ口を見いだして、彼女が専念芸術に没頭するようになるまでには、さまざまの形を取って表れた。その表れ方の著しいものは愛情であった。
 彼女の日記に出てくる愛人は3人ある。第1は彼女がニース(底本:「ニイス」)で見たイギリスのある公爵(デュク)であった。その時彼女は13であった。彼女の言った言葉で言えば、その公爵を彼女は往来で1、2度ほど見たことがあるに過ぎなかった。言葉を交わしたことなどは一度もなかった。それにもかかわらず彼女がいかに熱烈な崇拝心を彼にささげていたかは、その頃の日記が証明している。その記事を7年後(1880年)に読み返して、彼女は何らの感情も起こらないと追記している。(164頁。)これを愛ということはあるいは正しくないであろう。彼女は愛するような心境を愛したに過ぎなかったのであるから。
 第2の感情はローマ(底本:「ロオマ」)で醸された。対象は伯爵(コント)アントネリの息子で、彼は法王の候補者として擬せられていたある大僧正(カルディナル)の甥であった。彼は彼女を愛し、彼女も彼に興味を持った。その興味が果たして厳密な意味での愛であったかどうかは簡単にきめられない。彼女は彼を手近に引き寄せて、彼女を愛せずにいられないように彼に仕向けた。そこに少なからぬ技巧があった。そうして置いて彼女は一定の距離以内に彼を踏み入らせなかった。その態度は彼女を一個のほとんど完全なコケットとして表している。そうしてコケットであるのは彼女だけでなく、すべての女が(少なくともある時期において、ある程度までは)皆コケットでないかと感ぜしめるような告白の仕方を彼女はしている。これは彼女が16歳の時のことで、この時は、3年前のイギリスの公爵に対する情景よりも強く情熱を燃やし立てた。それをまた5年後に読み返して、彼女は決して彼を愛してはいなかったと断っている。(1876年5月17日のくだり(底本:「条」)の追記。)そうして、それはすべてロマンを求めるロマンチックな空想の結果に過ぎなかったと弁解している。あるいはそうであったかも知れぬ。何となれば、我々はピエトロ(アントネリ)の代わりに他の青年を置き換えても、それが彼と同じ条件(その中には殊に社会的地位の高いことが省かれてはならぬ)をさえ具備していたならば、同様に彼女の情熱を満足させたであろうと思われるから。しかしあるいはそうでなかったかも知れぬ。何となれば、彼女はその当時「私は彼を愛していないと言った時でもやはり彼を愛していた」というような微妙な心の動き方を告白しているから。
 彼女の愛の1つの特徴は、それが遊戯に類する表現の形式を取ることが多いのと、それだけまた余裕があって、従ってどんなに熱烈に見えても、その中に惑溺(わくでき)する恐れのないことであった。怜悧(れいり)なる彼女の半分は常に彼女の他の半分の痴態を監視した。彼女はそれがためにいかにしばしば悩み苦しんだであろう。ロシアのことわざに、心の中に猫がいるというのを引いて、彼女は自分の煩もんを形容している。
 しかし最後に彼女が自分の本当の道を見いだした時には、それらの過ぎ去った苦悶(くもん)はすべて夢のごとく消え去った。

 芸術! 若し私が魅力あるこの言葉を私の目の前の遠い所にでも持っていなかったならば、私は死んでいたに相違ない。

 彼女がそういって述懐したのは17歳の夏であった。普通の女が生涯を費やしても脱却し得ない苦悩を彼女は16歳で卒業して、17の春からはずっと高い世界に飛躍して、そこに安住の仕事を求めた。もはやこれまでのような、おちゃっぴいの、高慢な、多少俗気のある小娘ではなく、今や良い判断をもって高い道にたどりついた真実の一芸術家であった。彼女の第3の愛はこの境地に達して後に静かにわいた。肺を侵された彼女の体は死にかけていた。その時彼女の心がすがりついたのはバスティアン・ルパージュ(底本:「バスチアン・ルパアジュ」Jules Bastien-Lepage)の魂であった。彼は当時パリにおいて最も名声の高い画家の1人で、彼自身もまた死に近づきつつあった。マリは24で、バスティアン・ルパージュは36であった。前者は「出あい」を描き、後者は「ジャンヌ・ダルク」を描いた。二人は病み衰えて互いに死ぬ前に知り合い、聖者のごとく愛し合い、そうして同じ年の同じ冬の日に二月の日にちを隔ててこの世を去った。
 読者はここまで彼女の日記をたどって見ると、初めのニースにおける、またローマにおける火花のような彼女の情熱のほとばしりはやはり真実の愛ではなかったことに気づくであろう。それは探すものを探し当てない焦りの閃光(せんこう)に過ぎなかった。しかし探すものを探し当てた瞬間に彼女はその手を放さねばならなかった。──およそこの位までロマンチックなことがまたとあるだろうか! 彼女の生涯の努力が最後の絶頂に達した時に、彼女のために幕は落ちてしまったのである。
 彼女の日記を読む人は、初めは誰でも小さい妹の才はじけた追想記でも読むような気持ちで、時としては彼女の時間を惜しむ恐るべき熱心に動かされたりしながらも、その強い虚栄心と、自負心と、遊戯と、媚態(びたい)と、それらの告白に苦笑させられているが、いつしか引き入れられて、満腔(まんこう)の同情をもって傾聴しないではいられなくなるのを発見するであろう。これは告白の真実性の力である。彼女の日記は、彼女が自負しているごとく興味多きものであるが、その価値のほとんど全部は彼女が最後に高い清められた生活へ向かってまい進することによって最も強く保持されている。それあるがために私は人生記録の最上の1つとしてこれを紹介するのである。
大正15年11月
訳 者
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# by bashkirtseff | 2004-10-03 22:08 | はしがき

この日記について

 この日記は、

「世界名作大観 第二部 第十五巻 マリ・バシュキルツェフの日記 上巻」
  大正15年12月18日発行・昭和2年4月15日再版 國民文庫刊行會
「世界名作大観 第二部 第十六巻 マリ・バシュキルツェフの日記 下巻」
  昭和3年2月25日発行・昭和3年2月28日再版 國民文庫刊行會

をテキストにしたものです。
 マリについて詳しく紹介されている良書をあげておきます。

美術史をつくった女性たち―モダニズムの歩みのなかで
神林 恒道 仲間 裕子 / 勁草書房





 その他「Marie Bashkirtseff」等で検索すると海外サイトが数多く出てきます。さらに興味がある方はそちらをご覧ください。

■ブログ内の構成
  この日記について:この日記についての解説
  はしがき:底本の訳者である野上豊一郎が記した部分
  凡例:同上
  序:本文前書き
  本文:1873.01~1884.10.20まで
 入力日付は入力者が投稿した時間、タイトル日付は実際の日記に記されている日付と判断してください。

■入力規則
 ブログ上で日記をテキスト化するに当たり、以下の作業を行っています。
1.旧仮名遣いを現代仮名遣いに改める
2.漢数字は算用数字に置き換える
3.片仮名の人名・地名は旧仮名遣いのままとする。ただし、現代仮名遣いの呼び方が判明したものについては現代仮名遣いにあらためる(人名・地名共に置き換えた場合は括弧書きで付記)
  例:ニュウヨオク → ニューヨーク(底本:「ニュウヨオク」)
4.ルビは「○○(ルビ)」とする
  例:叔母(タント)
5.傍点や圏点、傍線の付いた文字は、強調表示にする
6.日記中の注釈は括弧書きで付記する
7.#で始まる括弧書きは入力者による注記

■旧仮名遣いを現代仮名遣いに改めるにあたって
 底本は大正~昭和初期に発行されたものであり、難解な漢字が多数使用されています。これをそのまま表記するか、現代一般的に使用される記述法に改めるかは判断が分かれるところだと思います。今回は
1.広く皆さんに気軽に読んでいただきたい
2.フランス語の日記を「訳した」書である
 という以上2点の考えから、「平仮名←→漢字の置き換え」と、「送り仮名の修正」を行っています。その基準として、共同通信社の「記者ハンドブック」を参照しています。

■年齢の表記について
 凡例、本文中等の記載とカテゴリ名の年齢が違う個所があります。はしがきにも「1860年生」とありますが、これはマリの死後、彼女の母親とアンドレ・トゥリエが日記を編集するにあたり、没年時25歳で独身であったという事実を隠すために2歳若くなるように修正した、あるいはマリ自身が年齢を若く表記していた、と言われています。
 このブログではカテゴリ表記が正確な年齢です。正式なマリの生年月日は1858年11月11日、没年月日は1884年10月31日(25歳)です。

■入力者より
 「マリ・バシュキルツェフの日記」は今回底本にしたもののほかに、學陽書房からも抜粋版が出版されていますが、両方共に現在絶版になっています。抜粋するだけでなく、今回底本にした國民文庫刊行會刊行の日記内で誤りのあった訳文のいくつかを、訳者である野上豊一郎が修正しています。(将来的には修正版の入力も考えていますが、現在は初版のみを参照しています。)
 これだけ懸命に生き、短い生涯を閉じた女性のことをより多くの人に知ってもらいたい、そして読みたくても読むことが叶わないでいた方々のお役に立てればという気持ちから入力作業をすることにしました。本来ならば青空文庫等での掲載が望ましいと思うのですが、大量の文字数により校正作業がとても難しいこと、そして入力規則の厳しさが今回の趣旨とは合わないため、ブログの形態を借りることにしました。入力ミス等個人での作業による弊害は多々発生すると思いますが、できる限り丁寧に作業を進めたいと考えていますので、ご理解いただければ幸いです。


※2012年5月19日追記
本日すべての日記の入力が終了しました。2004年10月3日に入力を開始し、7年半もの長い年月を費やしてしまいました。入力を心待ちにしていた方がおられましたら、深くお詫びするとともに、マリの人生に少しでも関心を持ち続けていただけたことに感謝を申し上げます。
今後は底本のままの旧仮名遣いのテキストや、抜粋版のテキストの作成や、やりたいことはたくさん残っています。何らかの形でまたお目にかかれましたら幸いです。
今までありがとうございました。マリへの深い愛を胸に。

近藤
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# by bashkirtseff | 2004-10-03 21:30 | この日記について