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1879.12.14(Sun)

 ベルタに招かれて私はボジダルを連れて、カルチェ・ラタン、ブラアス・サン・スルピス、リュ・ムフタール、リュ・ド・ヌーヴェル、ラ・モルグ・リュ・デ・ザングレなどの町々を見ながら歩いた。
 私たちは1時間の4分の1ほど鉄道馬車で、それからまた歩いた。それが3時から7時まで続いた。昔からのパリの町ほど良いところはない。私はローマを思い出したり、デュマの小説を思い出したり、カジモドやその他面白いもののたくさんあるノートルダム・ド・パリを思い出したりした。
 私たちはある街角でクリを買って、靴屋で20分過ごして、そこで9フランほど使って、それから別の店に行ってあまり値切りすぎて怒られた。──まあ、マダム、あなたは7フランのことで大騒ぎをなさいますこと。これが毛皮の外とうだったらすぐにも200フランもお出しになるでしょうに! ──私は2000フランの毛皮を着ていた。
 ある街の角で、私たちの靴が音がしないので、ボジダルを先に行かせて、私たちはある戸口の陰に隠れていた。けれども先に見いだされた。それから私たちはムッシュ・A…の家具を運ぶために4頭立ての荷車を2台命じようと請負人の所へ2軒行った。
 ベルタは静かに詳しく話しだした。2つのグランド・ピアノ、湯槽、ガラス戸のはまった着物だんす、陶器類、玉突き台、といったような風に。それから私たちはあらゆる所へ行って、あらゆる人と下らないことを話してみたくなった。けれども、もう7時であった。それで馬車を雇わねばならなかった。ところが少し行くと馬が転んで、それで私たちは降りた。皆が馬を起こして、それから私たちはまた出掛けた。鉄道馬車には非常に貧しそうな夫婦者が私たちの隣に掛けていたが、驚いたことにはお互いに話し合っているのが、その若い婦人は汽車に乗って激動を受けて、両ひざが胸にぶつかって背中をひどく打ったというようなことを話していた。
# by bashkirtseff | 2009-01-06 14:21 | 1879(20歳)

1879.11.26(Thu)

 私たちはマダム・Gと一緒にそりで出掛けた。
 今夜の終わりは笑劇であった。婦人たちと公爵令嬢アレクシス及びブランはヴァリエテに出掛けたが、ヂナと伯爵ド・ツウルズと私は食器棚からシャンパンを取りだして、晩さんを済ますと、4人前の食器を並べて、私は白ぶどう酒に水を割って空になったシャンパンの瓶にそれを詰めて、念入りに栓をしておいた。foie gras〔脂肪の肝臓〕に対する同じようないたずらをもまた私は思い付いた。今に皆が晩さんに帰って来るであろう。彼らはかなり食欲が強くなっているかも知れない。
# by bashkirtseff | 2009-01-06 14:18 | 1879(20歳)

1879.11.25(Wed)

 私たちはドミニコ僧院に教父ディドンを訪ねた。教父ディドン(当時39歳の有名なドミニコ派の説教者で、イゼールのトゥヴェ(底本:「ツウヴェット」)に生まれた人である/底本:「ヂドン」)は最近2年間ことに有名になった説教者で、パリ中が今ではそのうわさをしている人であることを、あなたにお断りする必要もありますまい。私たちは訪問を前もって知らせておいた。私たちが着くと皆が彼を呼びに行ってくれた。私たちは机が1つといすが3つと小さい気の利いた暖炉が1つあるぎらぎら光る応接室で彼を待ち受けた。私は昨日彼の肖像画を見て、見事な目をした人であることを知っていた。
 彼は出てきたが、非常に愉快そうな顔つきをして、極めて世慣れた人らしく、白の毛織りの着物を着ているのが大層美しく見えた。その着物はいつか私が着ていた着物を思い出した。彼の頭は丸刈りの点を除けばカサニャック(ジェール(底本:「ゼルス」)からパリへ出て有名になった新聞記者/1806-1880/底本:「カサニャク」)のような格好であるが、ただし彼よりもさらに光っている。そうして目もさらに明るく、態度も上品でさらに自然である。顔はすでに荒れかけているが、口の辺りはカサニャックと同じような不愉快な曲がったところがある。けれども、非常に特殊な風采をしておって、極端な ereole〔植民地のフランス種〕の感じなどは少しもなく、首は真っすぐで、手は白くて美しく、快活な面白そうな人物である。彼が口ひげを生やしているところをあなたは見たいと思うでしょう。
 非常に確信があって、そのくせ非常に用意されたる機知を持っている。誰にでも良く分かるが、彼は自分の人気のどのくらいまで広がっているかを知っており、また人から尊敬を受けることにも慣れており、自分の周囲に起こる感動を心から喜んでいる。教母Mから前もって手紙で彼に珍しいものが見られるだろうと知らせてやった。それで私たちは彼の肖像を描かせてもらいたいということを話しだした。
 彼は拒まなかったが、若い婦人に教父ディドンの肖像を描くなどは困難なことでほとんど不可能だろうと言った。それほど彼は有名で、人に追い回されている。
 しかしそれが理由なのである。……私は彼の熱心な賛美者として紹介された。本当を言うと、私はこれまで彼を見たこともなければ、彼の話を聞いたこともなかった。けれども私は彼を今見る通りに想像していた。声の音調が普通の談話においてもなぜさせるような調子から恐ろしい爆発にまで変化した。私の感じているのは肖像画である。もしそれが約束できれば私は非常に幸運な人間になれるだろう。彼は私たちを訪ねてくると約束した。私はちょっとの間彼が約束を守らないでくれれば良いと思った。しかしそれはつまらない間違った考えであった。彼が座ってくれることを今私はどんなに希望しているだろう。大望ある芸術家としてはこれ以上に都合の良いことは世界中にないだろう。
# by bashkirtseff | 2009-01-05 12:33 | 1879(20歳)

1879.11.24(Tue)

 37番のアトリエを借りて、ほとんど装飾も出来上がった。
 今日は1日そこで暮らした。ねずみ色の壁をした大きな部屋である。私は2枚の悪いゴブリンを持っていって壁の下の方を隠した。それからペルシアのじゅうたんと、支那のござと、大きな四角なアルジェリアの布団と、モデル台と、美しい織物と、柔らかい暖かい色をした大きな綿繻子の窓掛けなどを持っていった。
 それからたくさんな塑像。すなわち、ミロのヴィーナス、メディチのヴィーナス、ニームのヴィーナス、アポロン、ナープルのファウヌス〔牧神/底本:「フォウヌ」〕、筋肉模型、浮き彫り、など。また、外とう掛け、水盤、4フラン25サンチームの鏡、32フランの時計、いす、暖炉、引き出しを絵の具入れにしてある机、茶道具一式、インクつぼとペン、おけ、缶、たくさんな画布、幾枚かのカリカチュール、習作、写生画など。
 明日は少し絵が描けようと思う。それで私の絵がまずく見えるようになりはしないかと心配でもあるが。その他、腕とか、足とか、頭蓋骨とか、道具箱とか、そんなものを持ってくるつもりである。それでアンチニュスに頼まねばなるまい。
# by bashkirtseff | 2009-01-03 15:20 | 1879(20歳)

1879.11.23(Mon)

 私たちはジュリアンを正餐に招待に行った。けれども彼は10万も20万も難癖をつけて断った。それは私に対する威厳がなくなるとか、少しでも彼が好意を寄せるように見えるとひいきのように思われて皆の間がうまくいかなくなるとか、晩さんに招待して金があるから勝手なまねをするつもりだと言われたりするだろうとか、そんなことを言った。彼の言ったことは正しい。ほかの人たちの考え方はひきょうである。エスパアニュの娘たちはそれをブレスロオに用いた。ブレスロオは私の腰元だと言われたのを聞いて、私にひどく当たるようになってしまった。
# by bashkirtseff | 2009-01-03 15:18 | 1879(20歳)