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1884.08.11(Mon)

 私は写生するため朝の5時頃出かけた。でもすでに大勢の人がいたので、私は腹を立てて立ち去らねばならなかった。彼らは馬車の周りに20人もいた。それは閉め切られていたのではあるけれども。
 午後、私はまたさらに町々を駆け回った。けれども何にもならなかった!
 私はボアへ行く。
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by bashkirtseff | 2012-05-19 18:20 | 1884(25歳)

1884.08.09(Sat)

 夫人たちは、ルジャンドル街へ小さな製氷機を届けさせた。彼は枕頭に置けるようなのを1つ欲しがっていたので。
 彼から絵をごまかし取るために彼の歓心を買うのだと思わされさえしなければ!
 私の絵は、わずかに絵の具を使い出したばかりである。しかし私には勇気がない。
 私はちょいちょい伏せって体を休ませる必要がある。そうして私はまた起き上がると、そのたびに頭を巡らしてみる。すると、幾秒間かそこには何物も見ることが出来ない。とうとう私がそれがためボアへ行って人なき並木道をさまようため5時頃までも自分の絵を捨ててしまうというようなことになった折もある。
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by bashkirtseff | 2012-05-19 18:18 | 1884(25歳)

1884.08.08(Fri)

本文なし
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by bashkirtseff | 2012-05-19 18:14 | 1884(25歳)

1884.08.07(Thu)

本文なし
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by bashkirtseff | 2012-05-19 18:13 | 1884(25歳)

1884.08.02(Sat)

 火曜、水曜、木曜、金曜及び土曜日。5日間。私は自分の絵を仕上げた。私たちは同じ日に、クレエルと共に、同じ主題で、1.40メートルに1.15メートルの画布で着手したのだ。ご存じの通り、これは大物です。ユウゴオによって歌われたピエエヴルの流れ。背景には1つの農園。流れに沿って1人の少女が座って、対岸に立っている1人の男の子と話している。
 そうしてもし私の描き上げたものが非常に良かったら? それはあり得べからざることだ。それに人物の中には感情としてあまりに平凡なものがある。しかし私は早く描き上げたいと思った。それにしては実に面白いものになっている! ──人はこう言うかも知れない、──でもそこの所なんかは、実にしっくりと良く出来ている……それから、あの辺は、良くない。──それからまた、これは非常に立派な出来だ、実に美しい絵だ! ──クレエルは彼女の絵を仕上げていない。彼女は私の絵にならってそれを仕上げにするだろう。
 私は何ものにも増して自分が驚嘆しているものを歌ってみたい気がする。
 私は観察する人たちを驚嘆する。
 私は私の仕事をするのを見ていて、そうして何ら意地が悪いとか悪意が潜んでいるとかいったような底意なしに、ただ冗談に私のひじを突いて見るような人たちを驚嘆する。
 私は、アンゼリックが裁縫しているのを見ていると、一種畏敬の念に打たれる。それは、決して私にはそのようにして自ら慰もうとする考えが起こらないからである。
 どうして出来たりするのだろう? ……要するに、不可解である。
 しかしながら、ああ、私の心に衝動を与えるものが様々にある!
 ほとんどすべての真の芸術家は、労作しているすべての者は、私の通りなのである。
 私はまた、脂肪と血とからなる羊肉のカツレツのかなりに大きい幾切れかを食べる人たちをも驚嘆する。
 私はほとんど避くべからざるものとしてその中には見いだされるが常の、小さい虫なんかは気にもかけないで、喜んで蝦夷イチゴ(フランボアーズ)の実をむさぼり食う幸福な人たちを驚嘆する。
 そういう私はその一切の実を丹念に改めて見る。かくては労苦の方がその楽しみよりも大きくなってしまうのである。
 私はさらに、細切れにして、その刻み肉を詰めて料理をし、そうしてその料理の中身が分からなくなってしまっているようなあらゆる種類のものを食べうる人たちを驚嘆する。
 私は、要するに、単純で、健康で、そうして……通常な性質をした人たちを驚嘆する……と言うよりはむしろ羨望する。
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by bashkirtseff | 2012-05-19 18:12 | 1884(25歳)

1884.08.01(Fri)

 私があなたに向かって感動的な章句を使ったからとて、あなたはそれに動かされてはいけません。
 生きようと焦っている2人の私のうちの、1人の私が今1人の私に向かってこう言う。
 ──まあ、少し物事を感じなさいよ、どうか! ──そう言われると、何か感じようと努めている今1人の私は、いつも第1の私に、自己観察者に、支配されてしまう。その第1の私はいつも観察していて、今1人の私を吸い込んでしまうのである。
 そうしてそれは常にその通りであるだろうか?
 そうして恋愛も?
 ああ、そうだ。人間の天性を顕微鏡にかけてみるとき、それは不可能であると私には思われる。他の人たちは皆かなり幸福だ。彼らは必要なことをしか見ていない。
 あなたは知りたいですか? では言いますが、私は画家でもなく、彫刻家でもなく、音楽家でもなく、女でもなく、娘でもなく、友達でもありません。私の内にあるものはすべて、観察の、省察の、また解剖の主題となる。
 1つの凝視、1つの顔、1つの音、1つの喜び、1つの憂いは、直ちに計画され、検討され、鑑査され、類別され、注記される。そうして私が口で言ったり書き付けたりしたときは、私は満足である。
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by bashkirtseff | 2012-05-19 18:07 | 1884(25歳)

1884.07.23(Wed)

 素描の出来た私の絵に、モデルが見つかった。私は朝の5時からヴィレットへまたバチニョオルへ駆け回った。ロザリは、私が彼女に指図してある人たちの所へ行ってみた。
 さて、これも尋常容易な業ではない。
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by bashkirtseff | 2012-05-19 16:34 | 1884(25歳)

1884.07.21(Mon)

 私は自分の絵の背景になるような一隅を探し求めながら、4時間以上もさまよい歩いた。それは町である。それは場末の並木街である。しかしなお選択する必要がある。場末の並木街にある1つの公衆腰掛けは、門番とか、別当とか、乳母とか、遊び人などにより他には腰をかけないシャンゼリゼの腰掛けと甚だしく異なった性質を持っていることは明らかである。
 そこには性格の研究もなく、魂もなく、戯曲もなく、特別な場合を除けば、ただかかしみたいな人間があるきりである。
 しかしその腰掛けの縁に落伍者がかけているのは何という詩的だろう。そこでは人間は真実であり、そこではシェイクスピアの書いた人間になる。
 そうして私は今せっかく発見したこの宝が、私から逃げてしまいはしないかと、狂せんばかり不安になっている! もし私にそれが描けなかったら、あるいはもしも時が、もしも……
 聞いてください。もし私に才能がないなら、私をあざ笑う者は天である。なぜなら、天は私に天才ある芸術家たちのあらゆる苦悩を科刑しているから。……ああ!
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by bashkirtseff | 2012-05-19 16:32 | 1884(25歳)

1884.07.15(Thu)

 私は古い思いつきに帰る。そうしてそれは、私が公衆用腰掛けにかけている善良な人たちを見るたびに私の心を捕らえてしまう。これは1つの大きな習作になり得るかも知れない。いずれにしても人物が動かないような場面を描くよりも良いに決まっている。言うまでもなく私は運動に反対する者ではない。けれども乱暴な場面では、洗練された公衆に対する幻影や享楽は持ち得ないのである。人は、打つために上げられて打たないでいる手により、走っていながら1つ場所にとどまっている足により、ようやくに(それとも意識しないで)印象を受けるのである。また非常に動いている姿勢でありながら、それが不動の瞬間とみられるような場合もある。芸術としてはそれでたくさんである。
 いずれにしても大きな激しい運動に続く瞬間を捕らえた方が、それに先立つ瞬間を捕らえるよりも良い。バスティアン・ルパージュのジャンヌ・ダルクは声を聞いた。彼女は、その糸繰り車をひっくり返して、慌てて飛び出した。そうしてたちまち1つの樹木を背にして立ち止まった。しかし人々が動き回って、手をあげている様々な場面を想像してみるが良い。それは多分非常に力強いものではあろう。けれどもそこには決して完全な享楽はない。
 皇帝によって軍旗が授与される、それはヴェルサイユにおいてである。
 皆急いで寄せ集まる。両手を高く差し上げて。だが、これなら非常に良い。なぜと言うに、それらの手は待っていたのである。だからそれらの人々の感激によってこっちも自ら胸が迫ったり、感動させられたり、夢中になったりする。見る人の方でも彼らとその焦る思いを共にするのである。心のはやりも運動も、まさしく、非常なものである。なぜと言うに、私たちは停止の一瞬間をば自ら思い描いてみることが出来て、その間に1つの絵ではなく、1つの真実なものとして、この情景を落ち着いて眺めることが出来るからである。
 しかし何ものと言えども、彫刻にせよ、絵画にせよ、休息している状態にある主題の偉大さに比べ得られるものはない。
 凡庸な人間でも動乱している絵はかなり良く描きこなすことが出来る。しかし休息している主題だったら何一つとしてちょうどのものをば決して描けないであろう。
 ミレーの絵を見るが良い。そうしてそれをあらゆる想像的な乱暴の絵と比較してみよ。
 ミケエル・アンジュ(ミケランジェロ)の「モーゼ」を見よ。モーゼは不動である。しかし彼は生きている。彼の「考える男(パンスウル)」は身動きもしない。口もきかない。しかしそれは彼がそうすることを欲しないからである。それは生ける1人の男であって、自分の様々な思索に心を傾け尽くしている。
 バスティアン・ルパージュの「パ・メエシュ」はあなたを見つめて、あなたの物言うのを傾聴している。しかし彼は語ろうとしているのである、彼は生きているから。彼の「乾草(フォアン)」では、男が仰臥して、顔を帽子で隠して、眠っている。しかし彼は生きている。座り込んで夢見ている方の女は動かない。しかし彼女の生きていることは感じられる。
 休息している主題のみが完全に享楽を与えうる。それはその中に吸い込まれ、その中に分け入り、それが生きていることを見るの余裕を持っているからである。
 愚か者や無知な人たちはその方がより多く描きやすいと考える。ああ! 嫌になる!
 もし私が必ず死ぬものとすれば、それはフロオベエルが無際限と言った人間の愚劣に対する憤りからであるだろう。
 最近30年間にロシアでは驚嘆すべき様々のものが書かれた。
 伯爵トルストイの「平和と戦争」〔戦争と平和〕を読んで、私はこう叫びだしたほど感に打たれた。──まるでゾラにそっくりだ!
 実は今日「ルヴィウ・デ・ドゥ・モンド」に、私たちのトルストイに対する1つの研究論文が捧げられてある。それで、私のロシアの心がうれしさに躍り上がっている。この論文はムッシュ・ドゥ・ヴォギュエの書いたもので、彼は大使館書記官としてロシアに赴任していて、ロシアの文学と風俗を研究して、私たちの偉大にして驚嘆すべき祖国に関する著しく正鵠を得たる深奥なる数編の論文をすでに発表した人である。
 そう言うあなたはかわいそうに! あなたはフランスで暮らしている。祖国にとどまるよりも1人の外国婦人であることの方を余計愛している!
 あなたは、あなたの美しい偉大な崇高なロシアを愛しているのなら、ロシアへ行ってロシアのために働きなさい。
 私とてもやはり自分の国の光栄のために労作します。……もしも私にトルストイほどの大才があるならば!
 しかしもし私は自分に絵という仕事がなかったら、私は行ったであろう! 誓って言う、私は行ったであろう! しかし私の仕事は私の能力を吸い尽くしてしまった。そうしてその外のすべての事柄は暇つぶしであり、慰みである。
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by bashkirtseff | 2012-05-19 16:24 | 1884(25歳)

1884.07.14(Mon)

 私は自分の病気の治る治療を始めた。それで安心している。
 私の絵までが良くなったように思われる。
 バチニョオルの並木通りやワグラムの広小路にある善良な公衆!
 あなた方はそれを眺めてみたことがありますか? 町と行き交う人たちを。
 1つのベンチに含まれているものだけでも、何という小説でしょう! 何という戯曲でしょう! 片手をバンクの背にもたせかけ、他の手をひざに乗せている宿無し者。その目は所定めず見張っている。──女とそのひざの上の子供。忙しげに歩いている下層の女。──非常に快活そうな乾物屋の若者は、腰掛けて小新聞を読んでいる。労働者は眠りこけている。哲学者かそれとも失望者か、たばこを吹かしている。こうして私はおそらく際限もなくいろんなものを見る。……それにしても、夕方の5時か6時頃の光景をよく見てご覧なさい。……
 そこにある、そこにある、そこにある!
 私は見いだしたような気持ちがする。
 そうだ、そうだ、そうだ。あるいはそうはいかないかも知れぬが、それでも気は休まる。私は飛び上がって踊る。
 実に変わった気持ちになれるものだ!
 時として私は実際人生に何物も見えなくなることがある。また時としては……私はすべてのものを愛するように自分で改める! 自分の周囲のすべてのものを!
 それはちょうど上げ潮になってきた人生の波のようである!
 そうはいっても私には自ら享楽する手立てはない。
 ああ! 大丈夫、私は自分の死の床にあっても華やかな愛すべき一面をば見いだすであろう。私は非常に幸福であるために作られた人間である。しかし、……
    Pourquoi, dans ton œvre céleste,
    Tant d'éléments si peu d'accord? ……
   〔いかなればそなたの神聖ないさおしには、
    数多き要素はありながら和合に欠けたるぞ? ……〕
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by bashkirtseff | 2012-05-19 15:30 | 1884(25歳)