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1882.06.24(Sat)

 話がまとまって、私たちはリュ・アンペールのオテルを借り入れた。私はシャン・ゼリゼの家を見捨てるのが悲しい。何だか物を失ったような気持ちである。今度の家は広い地下室に台所と玉突き部屋があって、階段を10段上がると1階で、大きな玄関が付いていて、美しいガラス戸を開けると前部屋で、そこから上の部屋に通ずる階段がかかっている。右手の部屋からドアを開けると客間があり、その部屋に隣った1つの小さい部屋は庭に続いている。食堂があって、中庭には馬車が入るようになっていて、その馬車道へは客間からも、食堂からも降りられるようになっている。
 2階には5つの寝室にそれぞれ化粧部屋が付いて、浴室が1つある。3階は私のもので、前部屋と2つの寝室と、書斎と、アトリエと、物置部屋がある。アトリエと書斎とは長さ12メートル、幅7メートルの大きい続いた部屋になれるようになっている。
 光線は3方と上から来て立派である。要するに私は仮オテルとしてはこれ以上のものを望まない。さて、それでは! それでは! 何だか非常に遠くなったような気持ちがする。マドレエヌから馬車でブールバール・マルゼルブ(底本:「ブウルヴァル・マルセルブ」)を通ってくると10分かかる。実際、ここはリュ・アンペール30番地で、リュ・ブレモンティエ(底本:「ブレモンチエ」)の片隅になっていて、私たちの家はアヴニュ・ド・ヴィイから見える。
 さて、これからどうしますか? まず一番に何よりも嫌な引っ越しがあります。私の今静かに暮らしている部屋を見捨てなければなりません。……
 ああ! 困ったことだ! けれども仕方がない。もう公証人のところで署名してしまったのである。
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by bashkirtseff | 2010-04-30 08:04 | 1882(23歳)

1882.06.23(Fri)

 5時にL…とヂナと私はエミル・バスティアンを訪ねた。エミルは私たちのために座ってくれた。
 私は小さい板に彼を描いた。3号か4号だと思う。
 私はバスティアンのアトリエで彼の弟をモデルにして、彼の絵の具と絵筆で、彼自身のパレットを使っている
 要するに、それは夢である。子どもらしい妄想である。あの小さいスウェーデンの女はバスティアンのパレットを持ってみたいと言った。私はバスティアンの使いかけの絵の具を手を震わしながら記念のために少しばかり取った。そうして2人して笑った。
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by bashkirtseff | 2010-04-30 08:01 | 1882(23歳)

1882.06.22(Thu)

 このオテルは非常に私の気に入ったので、私は前後を忘れてしまって、部屋が皆ふさがっていて借りられないと聞いたときには気違いになりそうであった。リュ・アンペール(底本:「リュウ・アンペエル」)、30番で、完全な幸福が得られそうに思われた。
 私はアトリエとバルコンを入れて3階全部をもらっている。婦人室は2階で、下は客間である。外気の絵を描くためには庭があるから、外へ出るに及ばない。全く思いも寄らないほどによい家である。部屋の持ち主に5千フランくらいの割増金を与えても良いつもりであったが、幸いと、割増金なしに出来た。私たちはオテルが借りられて、私はやっと落ち着いた。道のりが遠くなり、アトリエがあまり大きくなく、その上、シャン・ゼリゼを離れるのがいやなので、それを私は気にしていた。シャン・ゼリゼに住まっていることについて、私は1つの夢を持っていた。ラヴニュ・ド・ヴィイ、絵の空気、芸術家と知り合いになれる望み。その夢は今実現された。それで、今度は、もし私が賞牌を得たらばそれは友達のおかげになりそうなことが気掛かりになってきた。その上、私はこれまで自分の絵を見てもらう人がないので腹立たしかった。正直に言うと、私の絵は画家に無視されていた。今では人はあるが、見てもらう者がない。今日、夕方5時に私たちはバスティアン・ルパージュのエスキスを見に行った。彼は今ロンドンにいるが、彼の弟のエミルがアトリエの主人役を務めた。私は、ブリスバアンとL…を誘って行った。それで私たちは笑ったり、話したり、写生をしたりして面白い1時間を過ごした。すべてが適当で、愉快であった。もしブレスロオのことばかり聞いていたならば、私は自分の運命を悲しんでねたましく思ったであろう。今私は自分の望んでいたものを皆持っている! それが私に才能を与えてくれるであろうか?
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by bashkirtseff | 2010-04-28 08:00 | 1882(23歳)

1882.06.21(Wed)

 私は絵を皆塗りつぶして、目に触れないように片付けてしまった! これは私を殺すようなものである。おお、絵、私はどうしてもそれに到達することが出来ない。自分の仕上げたものを破壊したすぐ後は、愉快な、自由な、また始めたくなるような心持ちである。今私の仕事をしているアトリエはチャドウィクというアメリカ人がマドモアゼル・ロショオトに貸してあったものである。その人が今日帰ってきたので、私たちは彼にこの殿堂を返さねばならぬ。
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by bashkirtseff | 2010-04-28 07:57 | 1882(23歳)

1882.06.20(Tue)

 ああ! 何も新しいものはない。訪問の交換と、絵と、……それからエスパアニュと。ああ! エスパアニュ! 私にそれを思い出させたのはテオフィル・ゴーティエの作品である。それは可能であるだろうか? 私はトレドにも、ブルゴスにも、コルドウにも、セヴィルにも、グラナダにも行ったではないか? グラナダにも! 私はこれらの名前を言うだけでも名誉な土地を訪問した。まるで夢である。そこへまた行きたい。あの大理石をまた見たい。1人でかあるいは数人の友達と一緒に行きたい。私は身内の者と行って嫌な思いをしてきた! おお、詩! おお、絵! おお、エスパアニュ!
 ああ! 人生とは何という短さだろう! そうして私たちがこんな短い人生を送らねばならぬということは、何という不幸だろう! パリの生活はすべてのものの出発点に過ぎない。高尚な旅がしたい。──鑑賞家と芸術家の旅がしたい。6カ月ほどエスパアニュとイタリアで暮らしたい。イタリアで、神聖な国で! 神聖な、並ぶものなきローマで! それは私の目をくらませる。
 ああ! 女は何という哀れむべきものだろう。男は少なくとも自由である。毎日の生活の絶対の独立、行くこと、来ること、出歩くこと、宿屋で食事をすること、家にいること、ボアへ散歩に行くこと、カフェに行くことの自由。この自由は半ばは才能を得るための戦いであり、半ばは日常生活の幸福である。
 しかしあなたは言うでしょう。あなたは優れた婦人なのに、なぜその自由が得られないのでしょう! と。
 それは不可能です。なぜと言うに、女がそんな風に自分を解放すれば、若くてきれいであっても、ほとんど交際を遮断されますから。彼女は特殊な、抜群な、偏狭な人になります。それで彼女は非難されて、その結果、異常な慣習を望んでいた頃よりも、かえって自由が少なくなります。
 それで女性を嘆いて、イタリアやエスパアニュの夢に帰るほかにしようがない。グラナダ! 巨大なる植物、透明な空、小川、キョウチクトウ、太陽、陰影、平和、平静、調和、詩!
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by bashkirtseff | 2010-04-27 07:57 | 1882(23歳)

1882.06.08(Thu)

 もう4時すぎで、昼のように明るい。私はわざと暗くするためによろい戸を閉めておると、労働者の青い仕事着がもう往来をぞろぞろ仕事の方へ急いでいる。気の毒な人たち! 5時前から雨になった。私たちはドゥセのレースにくるまって不平を言っているときに、あの気の毒な人たちは一生懸命に働いているのである。私は何という平凡なことを書いたものだろう。人は誰でもそれぞれの世界において苦しみながら不平を鳴らしている。そうしてまた誰でもそうするだけの理由を持っている。私は現在において、何にも不平を言うことはない。なぜと言うに、仮に私が才能を持っていないとしても、誰にも非難されるはずはないから。私は過去の多くの事物のごとく、また現在の事物のごとく、不正でなく、不自然でなく、嫌悪すべきことでない限り、実際今の孤独は私の才能を進めるのに有利であるかも知れない。幸運なるカロリュス・デュラン、彼は知名の人であり、また自らも古今最高の芸術家をもって任じている!
 私はブルターニュに行って絵が描きたい。
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by bashkirtseff | 2010-04-27 07:54 | 1882(23歳)

1882.06.03(Sat)

 コンクールが決定した。まるで冗談みたいで、全体が2級に分けられて、賞牌なし。先生たちは私たちを愚弄しているように思われる。
 3時から5時までの間私たちはサロンの大階段に立って金を集めていた。私は青白いばら色とコケ色の混じったビロードのルイ15世式の服装をして美しく見えた。そこには大勢の人がいた。──私に非常に優しくしてくれる女皇イサベラもいた。それから数人の友達もいれば、同情あるアメリカ婦人もいた。アメリカ婦人は私に20フランをくれた。その上通り過ぎる人たちも私にいくらかずつくれた。私は疲れていないときにはいつも人を惹きつける快活なところがある。3人の若い美術家が私を見ると、慌ただしく相談をしていたが、そのうちの1人が後戻って私に40スウをくれた。金を集めるものは決まって人に避けられるもので、集金者の列の前に来ると皆駆け出すのである。それだけまた非常に面白かった。5時に私は公爵夫人と一緒になった。婦人は私をジンゼエ子爵夫人のところへ連れて行った。子爵夫人は骨董(こっとう)品で詰まった1つのオテルを持っていて、バルザックのいわゆるパリの女王の1つである。それから私は公爵夫人とその孫娘マドモアゼル・ド・シャレットと一緒にボアへ行った。
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by bashkirtseff | 2010-04-26 07:57 | 1882(23歳)

1882.05.29(Mon)

 昨日私たちはアドリイヌとボアに行った。アドリイヌは私たちがパリの一番貴族的な社交の中に入ったことを褒めた。今日、私たちは女皇と、公爵夫人フィツ・ゼエムス母子と、伯爵夫人チュランヌとマダム・ド・ブリエと、最後にアメリカ婦人とを訪問した。
 私はジュリアンを訪問した。ヂナの大きなパステルは大変良いと言われた。
 けれども私の今の第1の問題は、来年のサロンに出す大きな絵のことである。しかしジュリアンはこんなことを考えるのには、あまりにパリ人であるので、私のこの考えに賛成しない。私はそのことばかりに熱中しているが、才能のある人たちだけが画題のことに熱中するものであるから、自分ではそれを言い出せないでいる。それが私には気取っているようにもあれば、こっけいなようにも思われる。私は謝肉祭の1つの挿話を思い付いたが、それはやめてしまった。それは単なる色の陳列になるのであろうから、私は自分の描きたいものを強く感じている。それは心の底までも入り込んでいる。もう数カ月になる。いや、実際2カ年にもなる。……この冬はそれを十分に描けるほどに果たして丈夫であるだろうかと、私は心配している。……もし丈夫だったらかえって困る。なぜならば、私は平凡な絵を描き上げるであろうから。けれどもその絵には真実と、情緒と、感情のあらゆる品質が含まれているだろう。あなたの心の全体を満たすものが、ことに立派に描かれるときに、悪いものになるはずは決してない。……簡単に言えば、それはアリマタヤのヨセフ(底本:「ヨゼフ」)がイエスの遺骸(いがい)を埋めたときの光景で、石が墓の前に転がされてあって、皆が去って、日が暮れて、マグダラのマリアと今1人のマリアだけが残って墓の前に座っているところである。
 それは荘厳な戯曲の最も美しい瞬間の1つで、またあまりに書き古されないものの1つである。
 それには偉大と、単純と、驚異すべき、感動すべき、人道的な点がある。──表しがたき、恐るべき静寂がある。2人の哀れむべき婦人の悲しみの浪費がある。……材料の方面はこれから研究しなければならぬ。
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by bashkirtseff | 2010-04-24 07:57 | 1882(23歳)

1882.05.28(Sun)

 フィツ・ゼエムス公爵夫人が訪ねてきて、今夜息子の嫁のところへ、私たちを連れて行きたいと言った。そこでは舞踏会があるはずであった。母は公爵夫人のことを世界一の愛想良い人だと言った。母と公爵夫人は始終行き来しているが詳しいことは私は知らない。私たちはその正体に応じて一緒に出掛けた。
 何もかも完全であった。最上の社交、最上の若い、新鮮な、快活な婦人たち、最上の服装。老公爵夫人にはちょっと数え切れないほどのおいやめいや孫たちがあった。私の聞いた名前だけでも皆有名なパリで聞こえた貴族たちばかりであった。私の紹介された2、3の人はことに優れた人たちであった。私自身はその客間に入って愉快ではあったけれども、今朝ほど描き上げたパステルのことが絶えず気掛かりになって、その欠点を思いだしては嫌な思いをしていた。
 その上、こんな風では社交界に入ることはおぼつかない。……少なくとも私は社交に慣れるまでに2カ月くらいはかかるだろう。ところであなたは私が社交に興味を感じたと思いますか? ……私はそれをばかばかしい、間の抜けた、退屈なものと思います! この世の中にこんなもののためにのみ生きている人があると思うと、驚かないではいられない! 私自身は時々はそれを見に行っても良いと思う。例えば流行社会ではどんなことが行われているか、ということに興味を持って。けれども偉い人たちが行くように、ただ気晴らしに行くだけである。決してホッテントット人や月の中の人間のようなまねをしたいわけではない。
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by bashkirtseff | 2010-04-23 07:54 | 1882(23歳)

1882.05.26(Fri)

 賞与の与え方を見ると嫌になる。ジラアルの得た賞与だけは、最上に値したものの1つである。──しかしその他に、人を悩まし悲しませるものがたくさんある!
 芸術家は普通の人たちよりも良心が強く、名誉心が強くなければならぬように思われる。ところが必ずしもそうではない。それで私は当惑している。
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by bashkirtseff | 2010-04-23 07:51 | 1882(23歳)