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1877.04.01(Sun)

 私は辛抱強い錬金者が待ち設けている瞬間を逃すまいとして昼も夜もレトルトの前に根気よく座っているような心持ちである。私は毎日今にもその時期が来そうに思われて、夢見ながら待ち設けている。……しかしどうしたらそれがわかるだろう? ……私は好奇心と驚きをもって自分を調べてみる。今があるいはそんな時期ではあるまいかと思って。けれども結局そんな時期は来ていないということが分かるようになる。もしかしたらばすでにそんな時期は過ぎ去ったのではあるまいかとも思われる。そうしてみると、つまり少しも異常なところはなくなったということになるのである。
 しかし私の空想はどうだろう、そうして私の書物と私の詩人たちはどうだろう? ……彼らは持ち前の野卑を隠すために、ありもせぬ物を大胆に作り出したのであろうか? 否……なぜと言うに、その場合、人の選択ということがどうして説明がつくだろう。……
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by bashkirtseff | 2006-07-31 22:10 | 1877(18歳)

1877.03.31(Sat)

 嘆きは何の役に立つだろう。涙は無益である。私は不幸な運命を与えられている。不幸ではある。けれども今に芸術家の名誉が得られる。でも、もしか……失敗したら! ……安心して下さい、私はどこかの片隅にくすぶって朽ち果てるようなことは決してないから。
 私はもう愛のことなどは口にしない。なぜと言うに、これまでその言葉を乱用したから。私はもう神の助けをも求めない。私の望むものはただ死である。
 私の神、主イエス・キリスト(底本:「クリスト」)、私を死なして下さい! 私の生涯は短かった。けれども私はいろいろなことを教えられました。すべてのものが私の心に背きました。私はただ死にたいのです。私の頭は私の書く文字のごとく混乱し矛盾しています。私はつまらないものを憎むと同じように、私自らをも憎んでおります。
 死なして下さい……私の神様! 死なして下さい! 私はもうたくさん生きておりましたから!
 安らかな死に方がしたい。何かヴェルディ(イタリアの作曲家/1813-1901/底本:「ヴェルヂ」)の美しい曲でも歌いながら死にたい。私は以前人に打ち勝たれたり楽しまれたりしまいと思っていた時のような憎しみを感じなくなった。今ではすべてのものが気にならなくなった。私はあまりに多く苦しんでいるから。
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by bashkirtseff | 2006-07-25 20:01 | 1877(18歳)

1877.03.03(Sat)

 今夜オテルの中にある礼拝堂へ行った。礼拝堂で愛のことを考えていると限りなくうれしい。僧侶や聖像や暗い奥の方で光っている灯明なぞを見るとローマのことが思い出される!!! 神聖な法悦、清浄な香気、微妙な歓喜、ああ! 書きたい!!!
 私の心を奪っている感情はただ歌うよりほかに表し方がない。
 聖ピエエルの円柱、その大理石と、そのモザイク、教会堂の神秘な深さ、芸術の壮麗、古代、中世、偉人とその記念物、──これらの物が皆私の前を過ぎ去った。
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by bashkirtseff | 2006-07-25 19:34 | 1877(18歳)

1877.02.26(Mon)──ナープル

 私たちは遊覧を続けて、今日は古い修道院聖マルチノへ行った。私はこれほど心ひかれる物を見たことがない。博物館という物は一般に面白くない物である。けれども聖マルチノの博物館は非常に面白い。長官(シンダコ)の古い馬車とシャアル(カルロ)3世の遊船が私の首を振り向けさせた。それからモザイクの床になっている廊下と、壮大な繰り型になっている天井と、教会や礼拝堂も見事な物で、これらはあまり大きくないから細部まで良く鑑賞が出来る。どこを見ても隅から隅まで、天井から床まで、何というおびただしい立派な大理石と宝石とモザイクであろう。グイド・レーニ(サン・マルチノに未成品の「生誕」を残した書家/1575-1642/底本:「ギドオ・レニ」)の絵とスパニョレットオ(本名ジュゼッペ・リベラ/1591-1652(底本:「1588-1656」)/イスパニア(#スペイン/底本:「エスパニユ」)生まれであるがナープルに定住していた画家)の絵は例外として、私はこれまでにこれほど驚くべき物を見た記憶がない。例えば、フラ・ボナヴェントゥラ(フランシスコ派の学者/1221-1274/底本:「ヴエナヴェンツラ」)の労作、古代のカポディモンテ(サルジニア(底本:「サルデニア」)の一地方、この土地の工人を使ってカルロ3世が陶器を焼かせた/底本:「カポ・ヂ・モンテ」)の磁器、絹に描いた肖像画、ガラスに描いたプチファの妻の挿話の絵、など。60の円柱を持った白大理石の内庭に至っては希世の美観である。
 私たちの案内者は、ここに僧侶は5人きりいないと言った。そのうちの3人は教団僧で、2人は俗人僧で、この建物の中の翼のどこか人の行かぬ高いところに住まっているのだということであった。
 私たちは塔のようなところへ上がった。バルコンが2つ重なり合って出ているが、その上に立つとがけの縁から見下ろしたような気持ちを感じた。その眺めは驚くべきほど美しい。山も別荘も高原もナープルそのものも、遠く青いもやの中に包まれて見えた。
 ──今日はナープルの町に何かあるの? 私が尋ねた、その町から聞こえてくる騒がしい音に耳傾けながら。
 ──何にもありはしません。あれはただナープルの人たちの声です。案内者が笑いながら言った。
 ──それじゃ毎日あんな音がしてるの?
 ──毎日です。
 絶え間なき喧騒(けんそう)が下の屋根の集まりから起こってくる。ひっきりなしの人声で、それを聞いて町というようなことが思われる音ではなかった。それは実際一種の恐怖を起こさせたが、青いもやの底からわいてくるその音を聞いていると、幻惑の感じと共に、自分がどんな高さに登っているかということを意識させられた。
 大理石の礼拝堂は心行く限りのものであった。こんな宝を持っているイタリアの田舎は世界中で一番富んだ田舎である。イタリアを他国に比べると、壮麗な絵を白壁のそばに置いたようである。
 私は去年はナープルをどう思っていただろうか? そのころはまだ見ていなかった!
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by bashkirtseff | 2006-07-25 19:30 | 1877(18歳)

1877.02.11(Sun)──ナープル

 トレド(ナープルの町の主要な大通り/底本:「トレドオ」)における私たちの地位を理解するためには、コリアンドリ(石灰または粉を塗った色紙)を投げる慣例の日のことを実見して知っていなければならぬ。ああ! しかしそれを見たことのない人には、あの黒い骨張った幾千の手と、ぼろと、美しい馬車と、羽根と、金飾りと、殊にもリスト(ハンガリー(底本:「ウンガリア」)生まれの音楽者/1811-1886(底本:「1821-1868」))をしてせん望の念に耐えざらしめるほどのその器用な指先と、これらの概念を描くことは出来ないであろう。雨と降る菓子の中を、群衆の叫びの中を、私たちはいきなりアルタムラに引っ張られて、ほとんど運ばれるようにして彼のバルコンへ連れて行かれた。そこで大勢の婦人たちに会った。……その愛想良き婦人たちは皆笑い傾けて私に飲み物を勧めた。私は灯を半分入れてある客間に退いて、頭から足先まで着物にくるまって泣いた。同時に毛織り外とうの古風なひだに感心しながら、私は非常に物悲しくなった。けれどもそれは喜びの混じった悲しさであった。あなたも私のように悲しみながらうれしさを感ずることがありますか?
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by bashkirtseff | 2006-07-25 19:23 | 1877(18歳)

日付なし

 10時20分にローマを出た。私はまた眠った。今はナープル(ナポリ)に来ている。けれども今度はあまり良く眠れないで、ある一人の気難し屋の紳士が車掌に向かってプラテエ(筆者の犬)のことで不平を並べているのが耳に入った。丁重な車掌は私たちの犬を弁護していた。
 しかしここはナープルである。あなたも私と同じような心持ちになれるでしょうか? 大きな美しい都市に近づくといつも不安になって胸がどきどきする。私はこの町を私の物にしてしまいたくなる。
 私たちはオテル・ド・ルーブル(底本:「ルウヴル」)に着くまで1時間以上かかった。途中の混雑、殊に叫び声とおびただしい雑踏。
 この町の女たちは不思議な頭をしている。メナジュリ(動物の見せ物)で虎や大蛇などと一緒に見せられる女たちみたいな風をしている。
 ローマでは古い物が良い。ナープルでは新しい物よりほかに褒める物はない。
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by bashkirtseff | 2006-07-25 19:20 | 1877(18歳)

1877.02.08(Thu)──ローマ

 私はヴァンタミル(ヴェンチミグリアーフランスからイタリアに入った時の最初の小都市、サン・レモの手前)で眠りに落ちたきり、精神的に言っても、肉体的に言っても、ローマへ着くまで覚めなかった。ローマからすぐに行きたかったけれども、ナープル行きの汽車は夜の10時まで出ないと言うので、そこで待っていなければならなかった。終日ローマ!
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by bashkirtseff | 2006-07-25 19:16 | 1877(18歳)

1877.02.01(Thu)

 婦人たちはモナコにおいてのわずか数百フランの金を避けようと用意していた。私は非常に辛辣(しんらつ)な演説をして彼らを正気づかせてやった。そうして母様と私はかご馬車を駆って、日光浴をしながら公爵夫人ド・パロオルを訪問した。婦人は愛想良い人であるが、私たちは悪い教育を受けた者のように婦人を軽くあしらった。
 私たちは比類なき声楽者ヂアズ・ド・ソリアに会った。彼の言うところによると、私に呼ばれたから来たのだそうである。私は彼において一人の友人を見たように感じた。私はテアトル・フランセーズの土間の左手の桟敷に体を落ち着けて、コメヂ・フランセエ団のアガの歌っているのを聴いているような気持ちになった。私は Les Horaces(レ ゾラアス)を聴いた。ローマという名が幾たびも幾たびも華麗な崇高な声で私の耳の中に響き渡った。
 帰ってきて私はリヴィウス(有名なローマ史の筆者/前59-17)を読んだ。英雄、トガ(古代ローマ人の外衣)のひだ、カピトリウム(ユピテルの神殿)、円天井(クポラ)、bal masquè(バル マスケ/仮面舞踏会)、ピンチオ! ……
 ──おおローマ──
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by bashkirtseff | 2006-07-04 21:01 | 1877(18歳)

1877.01.23(Tue)

 昨夜私は絶望の発作にとらえられて声を立てて泣いていたが、ついに食堂の時計を海に投げ込んでしまった。ヂナが何か変事が私に起こったのではないかと心配して後から追っ掛けて来た。けれども投げ込んだのは時計だけであった。それは青銅の時計で、ヴィルジニイはいないでポオルだけが、ふさわしい帽子をかぶって釣りざおを持っているところであった。ヂナが私と一緒に私の部屋へ帰って来て、時計のことを非常に面白がっているようであった。私も笑いだした。
 かわいそうな時計!
 公爵夫人スウヴァロフが私たちを訪ねてきた。
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by bashkirtseff | 2006-07-04 20:53 | 1877(18歳)

1877.01.17(Wed)──ニース

 人のよく口にする恋愛(アムウ)とはいかなるものであるか、いつになったら私に分かるだろう?
 私はA…を愛したのかも知れない。しかし今では彼を軽蔑(けいべつ)している。私は公爵・ド・H…を愛したことがあったが、そのときは子供で、我を忘れていた。それは公爵の富と名と異常とにふさわしき、また法外な……空想にふさわしき愛であった。
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by bashkirtseff | 2006-07-04 20:49 | 1877(18歳)