カテゴリ:1876(17歳)( 200 )

1876.12.27(Wed)

 母様がロシの死について話していると、あの愉快なエビが私たちの後ろから半回転(カラコル)しながら入って来た。
 ──実にどうも、彼は言った、まず丁重なあいさつをした後で。お気の毒なピエトロ・A…は伯父を亡くしてしまいました。
 ──ええ、お気の毒ですわ。遺産はなかったのですか?
 ──ありました。銀の食器が。
 これで皆が陽気になった。その後で私はごく打ち解けた調子でロシに世間の評判を聞いてみた。私たちはイタリア語で話した。
 ──あなたもご存じの通り、私は付け足して言った、私たちのことは誰も知りません。私はきっとローマに夫を探しに来た外国人だと思われているかも知れませんのね。
 私たちはしばらく話した。そうして私には誰もそんなことに重きを置いていないことが分かった。
 ──誰もあの人のことをあなたと連関して考えたりする人はありません。あの人は財産もなけりゃ地位もない気の毒な人です。……それはそれとして、あなたはあの人に感動をお与えになったから、あの人も今に悪いところを直すでしょう。つまり、改造していくでしょう。
 ──だってあの人は仕様のない子供ですもの。
 ──おお! 否、気の毒な子供です、ひどく苦しんでいます。……
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by bashkirtseff | 2006-06-15 19:59 | 1876(17歳)

1876.12.25(Mon)

 私たちは昨日サン・レモを立った、父と母と私は。旅行中私はどんなことを考えたと思いますか? ……もちろん楽しい空想がほかの感情に打ち勝って、いつものように、すべての人間的な物から全く懸け離れたある生活を描き出した。
 この楽しい心持ちはアルビアソラ停車場の付近でがけ崩れのために汽車が止まったので中絶してしまった。私たちは汽車から降りて、荷物を受け取って、別に迎えに来た汽車のところまで数分間の道を歩かねばならなかった。これはたいまつの揺らめく火を頼りにして行われるので、それが暗い空を照らして、怒った水のたけり声に伴われている光景は絵のようであった。
 この出来事のために私たちは乗り合いの人たちと口をきく機会が出来た。その中の一人は軍人であった。
 彼らは私たちのかばんを持ってくれたり、通りにくいところで手を貸してくれたりした。その士官は相当に教育のある利口な人であったが、私が彼をまじめな、むしろ粗野な対話──政治談に引き入れたので驚いていた。
 夜が明けると私は窓際に出て、ローマ付近の土地の景色を一瞬間も見落とすまいと待っていた。
 なぜ私は自分の心の中に美しい思い出がわきながら、しかも多くの人たちは美しい言葉で幾たびもそれを言い表したいのに、自分でそれを表現することが出来ないのであろう!
 私はさまざまの場所を見つけ出そうと思って一生懸命に気を取られていた! ……汽車の前部はもういつしか停車場のガラス屋根の下に入っていた。私はまだサン・ジャン・ド・ラトラン(サン・ジョヴァンニ・ヂ・ラテラノ──ローマ東南端の大寺院)のたくさんな屋根を眺めていた。エスパアニュの大使夫人が来ていた。多くの婦人たちを迎えに来ているのであった。私が振り向くと彼女は私を見覚えていた。私はまたローマへ来たことを恥ずかしく思った。何だか侵入者とでも思われていはしないかというような気がした。
 私たちはこの前のオテルに着いて、同じ部屋を取った。私は2階へ上がって、隅の手すりの球に寄っ掛かった。ちょうどあの晩にしたと同じように。
 私は階段の戸口を腹立たしげににらめて、赤い部屋を占領した。……あなたは信じて下さるかしら? ……ピエトロのことを思い出して。
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by bashkirtseff | 2006-06-15 19:52 | 1876(17歳)

1876.12.23(Sat)──サン・レモ(フランスに接近したイタリアの海岸町、ニースから約50マイル)

 私は父を誘い出せるだろうか? 彼は、しかも母様を連れて、私と一緒に2日間旅行することに同意した。母様へすぐ来て下さるようにと電報を打ち、来るのを待っている間に、私は公爵夫人エリストフと数時間をヴィラ・ロッカで過ごした。英雄的な伯母ロマノフはオテルに一人で居残った。彼女は私の往来する仲間と交際するのを嫌っている。あなたはこの人が私に好き勝手なことをさせるような役目を引き受けると思いますか? 私は彼女を尊敬しています。
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by bashkirtseff | 2006-06-15 19:37 | 1876(17歳)

1876.12.18(Mon)

 昨日目が覚めると父から手紙が届いていたから読むと、こんな文句が書いてあった。「私は姉妹たちとオテル・ドュ・ルクセンブルクに来ている。来られるならすぐ来なさい。」
 私は母の言葉に従って、1時に正確にこの招待を受けた。そうして入る前に差し支えありませんか? と聞いた。すると返事は、父上(モンペエル)と伯母エレエヌが馬車まで迎えに来て私を部屋に連れて行ってくれるというのであった。

 伯母エレエヌと公爵夫人は何物に対しても邪魔をしなかった。2人は私に大僧正の話をして、ローマへ行って彼のおいと彼の金を探してみてはどうだろうと言った。
 ──あの人はいないのですもの。私は言った。
 ──どこへ行ったの?
 ──セルビへ。
 ──そうじゃないのよ。ローマにいるのですよ。
 多分それでは戦争が済んだから戻ったのでしょう。昨日私はセルビから帰ったばかりの一人のロシアの志願兵と食堂で一緒になった。
 それから私たちはツチェフのうわさをした。私は彼女のことをもっとも軽蔑(けいべつ)した調子で話して、誹毀(ひき)の告訴をしてやりたいと言った。
 彼らが私の身内や母の悪口を言うならいくらでも言わせよう! 彼らが自らを弁護するのは勝手である。けれども私のことには触れてもらいたくない。なぜと言うに、私は防御のない人間で、私をそしるのはひきょうだから。自分ではどこまでも復讐(ふくしゅう)するつもりである! それは私は何物をも恐れないという良い理由によって。
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by bashkirtseff | 2006-06-15 07:51 | 1876(17歳)

1876.12.11(Mon)

 私は日一日と絵を描きたくなって来る。今日は終日家にいて音楽をやっていたところが気も心も高まった。それから祖父様と2時間ロシアの歴史の話をしていると心が静まった。私は嫌いである……敏感になるのは。……若い娘にとっては、それはどう考えてもさまつなことを意味する。
 祖父様は歩き回る一個の百科全書(アンシクロペヂ)である。
 私はどこかに私を愛し、私を理解し、私に同感し、私をさらに幸福にするために全生涯を費やすような人があるのを知っている。その人は私のためには何事でもしてくれる。そうして私を一度裏切ったことはあるけれども、二度と再び裏切ることはないであろう。それは私自身のことである。
 私たちは男に何物をも期待してはならぬ。期待すれば偽りと悲しみを発見するばかりであるから。
 私たちはただひたすらに神と私たち自らの力を信ずることにしましょう。私には大望があるから、何事かを完成して大望を是認してやらねばならぬ。
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by bashkirtseff | 2006-06-09 07:52 | 1876(17歳)

1876.12.07(Thu)

 小さい家庭上の煩わしさが私の心をくじく。
 真剣になって読書してみると、われながら知ることの少ないのに驚いてしまう! いつまでたってもすべてを知ることは私には出来ないだろうと思われる。私は学者がうらやましい。黄色い解放された醜い人たちでもうらやましい。
 私は学問をしたくてたまらない。私には導いてくれる人が一人もない。
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by bashkirtseff | 2006-06-09 07:51 | 1876(17歳)

1876.12.03(Sun)

 空の変化は私の唯一の楽しみである。夕べは澄み渡って、月が青ざめた太陽のように照らしていた。今夜はくらい不定の雲に満たされて、その間から夕べのような輝かしい星が見えている。……私はこんな観察をあずまやから自分の部屋へ帰る間にしたのである。パリにはこんな空気もなければ、こんな木の色もなければ、こんな心地よい雨もない。
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by bashkirtseff | 2006-06-09 07:50 | 1876(17歳)

1876.12.02(Sat)

 ローマの思い出が私をもだえさせる。……しかし私はもうローマへは行かない。私たちはパリへ行こう。……
 おお、ローマ! なぜ私はローマに行かれないわけがあろう! ローマへ行かれないならここで死んでも良い。私は息を殺して、体を伸ばした、ローマまでも届きそうなほどに。
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by bashkirtseff | 2006-06-09 07:50 | 1876(17歳)

1876.12.02(Sat)──ニース

 叔母は私にカフェを持ってきてくれた。私は2つ3つの箱を解いてもらって、旅行以来初めてまた我に返った心持ちになった。ロシアでは太陽がなかった。パリでは着物がなかった。
 私の生活の様式を注意して下さるよう願います。行李る(こうる)こと、解くこと、着てみること、買い物をすること、旅行をすること。いつも同じことばかりです。
 庭に出てみると、ムッシュ・ペリカンが付き添い医者ブルウセイと一緒にいた。それから祖父様の眼科医イヴァノフも、将軍ウォルフも、将軍ビホヴィツも、アニチコフ家の人たちもいた。私は母たち〔母と叔母〕が私が丈夫になったと言って喜んでいるので、無理にでもそういった風に見せねばならなかった。
 あなたには幸福があります! しかし私はルウ・ド・フランスの私の女たちのところへ会いに行くためにそれを見捨てます。
 何というおもてなしだろう!
 彼らは私に結婚のこと、死のこと、出産のことを話して聞かせる。
 私は彼らに商売はうまくいっているかと尋ねた。
 ──良くないのですよ。私に答えた。
 ──なるほどね、私は叫んだ、フランスが共和国になってから、何もかもいけなくなってしまったわね。
 そうしてそれが私にきっかけとなった。私は議会を見に行った話をすると、皆驚いて後ずさりしたが、すぐ後から私の周りに集まった。それで私は片手を腰に当てて、ニースの方言で間投詞やのろいの言葉を使いながら一場の演説をして、共和党の人たちはその手を人民の金にかけている、ちょうど今私がこの手を米にかけているように! ──とそう言って、私は米の袋の中に片手を突っ込んで見せた。……
 久しぶりに見たニースの空は私を狂喜せしめる。新鮮な空気を呼吸して、晴れた空を見ていると、私の心はうれしくなって躍り出す。
 海はやわらかい暖かな灰色の雲から漏れる太陽の光で心持ち銀色を帯びている。木の色は目も覚めるばかりである。……こんな楽園に住むのは、何という喜ばしさだろう! 私は遊歩道を歩いてみた。帽子をかぶっていないことも気にしないで、また大勢の人が通っていることも気にしないで。それから帽子を取りに帰って、叔母とビホヴィツに一緒に出掛けませんかと言ってみた。私はポン・ヂュ・ミヂまで歩いて行ったが、何と言うことなしに物悲しくなって引き返した。
 要するに、家族には家族の魅力はある。トランプの遊びもあれば笑いもあれば茶も出る。私の使っている人たちの間に交じって、私の愛する犬──大きな黒い頭をしたヴィクトルや、雪のように白いピンチオや、バガテルや、プラテエや、……に囲まれて、私は楽しくしている。これらのものが皆私の目の前にあった。今老人たちは食卓の用意をしている。あの犬と、あの食堂と。……おお! 私は抑え付けられるようだ。私は息が詰まるようだ。私は逃げ出さねばならぬ。私は夢の中で縛り付けられているような心持ちである。私は耐えられない!!! 私はこんな生活をするために生まれたのではない。私は耐えられない!
 ちょっとくらいなら年取った人たちとまじめなことを話し合っても誇りを感じたことはあった。……けれども要するに彼らは取るにも足らない老人たちである。私にとって何の役に立つだろう?
 私はニースに滞在していることが恐ろしくなって、気が狂いそうである。何だかまだ一冬空費しても何事も出来なさそうに思われる。
 仕事をする機会が私を避けている!
 将軍ビホヴィツが私に大きな花かごを贈ってくれた。夕方には母様がその花を枯らさないように水をかけた。……こんなつまらないことをしていると、私は気が違いそうだ。中流社会(ブルジョアジ)のこの気取りは私を絶望的にする!
 ああ! 神聖なる恵み! ああ! 天上の神にかけても誓います! 私はいい加減な冗談を言ってるのではありません。
 あずまやから出ると美しい月影が私のバラやモクレン(マグノリア(底本:「マグノリヤ」))を照らしていた。……
 この花園もただ悲しみと悩みの心を私に起こさせるのみである!
 部屋に帰ると、私の目はぬれて悲しかった。
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by bashkirtseff | 2006-06-05 21:35 | 1876(17歳)

1876.12.01(Fri)

 私たちは昨日パリを去った。母様は36の手荷物のために死に物狂いになるまで私を働かせた。彼女の泣き声と驚きと、それから彼女の箱と、これはたまらなく野蛮なものである。……
 とうとう済んだ!
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by bashkirtseff | 2006-05-18 08:00 | 1876(17歳)