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凡例

・ この翻訳は1885年に小説家アンドレ・チュリエによって整理されたJournal de Marie Bashkirtseff(Paris : Bibliothèque-Charpentier)と、5年後にロンドンで出版されたマチルド・ブラインドの英訳と、及びニューヨーク(底本:「ニュウヨオク」)で出版されたメアリ・セラノの英訳と、これだけが元になって作られた。ただし後の方の英訳書はかなり勝手な抄訳であるからあまり参考にはならなかった。
・ チュリエはこの日記の著者を彼女の望み通り有名にしたが、しかしその編さんにはどの位の程度まで手入れされたかは全然不明であった。少なくともマリの書いた原稿の全部が印刷されなかったことは確実と信じられていた。約40年を経過して近頃ボレルという人の手で別の版が出された。チュリエの版は1873年(13歳)の回想から始まっているに対して、ボレルの新しい版は1877年(17歳)から始まっている。そうしてマリの原稿ではそこが第70冊と題されて、丁数は195となっている。問題はその前の69冊はどうなったかであるが、一説には13歳以前の回想の分はマリ自らが破り捨てたとも伝えられている。それなら13歳から17歳までの部分は原稿通りであるか、それともチュリエの手によって多数省略されているか、恐らく省略された個所も少なからずあるだろうと推定されている。
・ マリのフランス文は飾り気の少ない親しみの多い書き方である。彼女はロシア人であったから、もとより完全な立派なフランス文を期待しても無理であっただろう。そのことをば自分でも認めて、1876年4月19日のくだり(底本:「条下」)で弁明している。「私のフランス語には問題があるだろう。私は外国人である。けれども私の国の言葉で書かせると、私はもっとひどいものをきっと書いたであろう。」彼女はそういっている。
・ 日記の中の日付には時々書き誤りが発見される。それらは(必要な場合には注を入れて)原文のままにして置いた。
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by bashkirtseff | 2004-10-03 22:28 | 凡例