カテゴリ:1882(23歳)( 94 )

1882.12.31(Sun)

 暗くて絵が描けないから教会へ行った。それからリュウ・ド・セエズの展覧会へ行って、バスティアンとサン・マルソオとカザンの絵を見た。カザンの絵を見るのはこれが初めてである。私は感心してしまった。それは詩である。けれどもバスティアンの「村の宵」はこの詩人に一歩も譲らない。そうしてバスティアンはいつも仕上げがうまいと言われるのを注意して下さい。

 私は有益な1時間をそこで費やした。何という楽しさだろう! これまでサン・マルソオのような彫刻は1つもなかった。陳腐な言葉としてよく使われる「生きてるようだ!」という言い方はこの場合絶対に真実である。芸術家をして成功せしめるに十分なるこの素質に加うるに、さらに思想の深さがあり、感情の強さがあり、またサン・マルソオを単なる才能の士ではなく天才の芸術とならしめるところの神秘的なあるものがある。
 彼はまだ若い。それが私の誇張して言うわけである。
 時としては、私は彼をバスティアンの上に置くことがある。
 私の心は今決定した。私は1人によって絵を、今1人によって彫刻を持たねばならぬ。
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by bashkirtseff | 2010-06-13 22:37 | 1882(23歳)

1882.12.30(Sat)

 だんだんと悪くなってきた! ──私は誇張しだしている。けれどもだんだんと悪くなってきたのは事実である。実際、もう回復することは不可能である。公平でも善良でもない神は、こんなことを言うために私をこの上なおも苦しめることだろう! ──彼は私をあまりに脅かすので、私は屈従しようとしている。この屈従は彼の預かり知らぬものであろう。何となれば、それは恐怖から生じたものであるから。
 ただしかしながら……。何よりいけないことはせきがたくさん出て、胸に嫌な音が聞こえることである。……まあ何もかも14日までそのままにしておこう。もしその日まで私の健康が保たれたら……。もし熱だけでも出なかったら……。しかし、そんなことはおぼつかない。おそらく、病気はもう制御の付かないところまで進んでいるのだろう。非常に早く進むものだから、両方の肺が悪いと考えてみて下さい。ああ! 哀れなことである!
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by bashkirtseff | 2010-06-13 22:35 | 1882(23歳)

1882.12.28(Thu)

 実際そうであった! 私は肺病である。彼が私に今日言った。──気をお付けなさい。早く良くなるようにしなさい。──そうしないと後悔することになります。
 医者はまだ若い人で、利口そうな顔つきをしている。発疱法その他の不愉快なことについての私の反対に対して、彼は今に後悔するようになると答えた。そうしてこれまでこんな不思議な病体を見たことがないと言った。私の顔つきからはどうしても病気とは思えないと言った。実際肺は左の方はいくらか良いけれども、両方とも冒されている。それにもかかわらず私は健康そうに見える。
 私が初め左の方に痛みを感じたのは、私たちがキエフの神聖な塋窟でミサとルーヴルをたくさん払って私の病気の治るように神と聖骨にお願いして出てきたときであった。1週間前までは左の肺臓にはまだ何にも音は聞こえていなかった。彼は私の家族に肺病にかかった人があったかと言った。
 ──私の祖父の父と、その2人の姉妹、伯爵夫人ド・トウルウズ・ロオトレクと、男爵夫人ストラルボルンと、それから大曾祖父と、2人の大叔母と。
 ──なるほど、とにかくあなたは肺病です。
 私は、こんな珍しい患者に興味を持ったこの医者の階段を下りてくるとき、足が少し震えた。なるほど彼の言うことに従ったら、私の病気は止まるであろう。それは発疱法と南国へ行くことである。1年間醜い形になって島流しにされるのである。──一生に比べれば1年くらい何だろう? 私の生涯は美しい生涯だもの!
 私は落ち着いているが、この不幸の秘密をただ1人で知っていることを思うと少し心配である。占者はあれだけの幸運を私に予言したのに? ……けれどもジャコブ小母は病気のことも言った。それはこうである、彼女の予言が全く実現するためには、まず大なる成功と富と結婚と、夫の愛が来なければならぬと言うのであった。──今私は左側が痛んでいる。前よりも大きい痛みである。ポオテエンは肺が冒されているとは決して言わなかった。彼はこんな場合に決まり切った方式を用いるのみであった。すなわち気管支とか、気管支炎とか、等、等。……しかし真実のことを正確に知る方が良い。それはどんなことでもするように私を決心させる。ただし今年旅行することだけを除いて。
 来年の冬は私はこの旅行の言い訳に2人のマリアの絵が描けるであろう。この冬行ったならば去年の悔いを繰り返さねばならないだろう。私は、南国へ行くことを除いては、何でも出来るだけのことをしようと思う。そうして神の恵みを信じよう!
 この医者が真剣に言ってくれたことは、私の肺はこの前来たときよりも悪くなっているということである。初めは私の耳を見ていたのであった。私は半分笑いながら何と言うことなしに胸を見せた。彼は診察して、処方を作って(1カ月前に)あの汚いものを皮膚に塗るように言ったが、私はまさかこんなに早く悪くなろうとは思わなかったので実行しなかった。
 でも私は肺病である? それはこの2、3年来のことに過ぎない。要するに、命にかかわるほどの重大なことではないが、ただ甚だしく気が沈むのである!
 おお! それはそうだ! しかし私のこの健康な外観と、病気前にこしらえた着物が小さくなった事実をば何と説明したらば良かろうか? 何だか急にやせ細るのではないかと言ったような気がする。多分それは私が若いからであろう。肩が広く、胸が中高で、腰がエスパアニュ風になっているからであろう? 私はすべてこの災厄から回復することは出来ない。
 けれども、もしまだ10年の月日が私に残されているなら、その10年の間に恋と名誉が得られるなら、私は30歳で満足して死ぬであろう。もし誰かこのことを約束してくれる人があるなら、──私はそのときまで生きて喜んで死ぬだろう。
 けれども私は治らねばならぬ。……と言うのは、この……病気を止めねばならぬ。なぜと言うに、決して全治することはないだろうから。しかし、実際、この病気にかかりながら長い間生きている人はある。──私は発疱法も好きなだけさせようと思う。絵を描かねばならないから。
 私は胸衣に花や、レースや、絹編みを付けてその場所を隠すことが出来るだろう。その他必要のないいろんなものを付けることも出来るだろう。それはきれいに見えるかも知れない。ああ! 私は慰められている。いつでも発疱膏を付けているわけではない。1年も気を付けたならば、長くとも2年も気を付けたならば、私は人並みの体にはなれるだろう。また若々しくなれるだろう。……
 ああ! 私は早く死にそうだと言ったことがあった。神は、私を長生きさせることが出来ないので、私を殺してその面倒を逃れようとしている。彼は悲惨で私を圧倒して、それに結果を付けるために私を殺すのである。私は死なねばならぬと言った。私の生涯は長く続くことは出来ない。あらゆるものを持ちたい望み、巨大なる向上心は続くことが出来ない。そのことは良く分かっている。幾年か前にニースで私はすでに、私が生きるために必要なほどのすべてのものを大まかながら見ておいた。しかし他の人はそれ以上のものを持ちながら死なないのである!
 私はジュリアンよりほかには誰にも話さない。彼は今夜私たちのところで食事をした。私はちょっと彼と2人きりになったとき、意味ありげに私ののどと胸を指さして見せた。彼はそれを信じようとしなかった。私は丈夫そうに見えたから。彼は彼の友達で医者に見誤られた人のことを話して私の気を安めようとした。……
 そのとき彼は天国についての私の考えを聞いた。私は天が私をひどく取り扱ったと言った。──私はそれをどう思っているというのか? あまり良くは思っていない。──しかしこの人生の後に何物かあるように私は考えているようだと彼は言った。──そうです、それはあり得べきことです。私は答えた。私は彼にミュッセの Espoir en Dieu〔神の希望〕を読んで聞かせた。すると彼はフランクの祈とうの文句を暗唱して答えた。……「われ生くべし!」
 私もそうだ。この死刑の宣告を受けた境遇はほとんど私を喜ばせる。それは苦しみの1つの機会である。それは新しい感動である。私は1つの秘密を持っている。すなわち、死がその指で私に触ったのである。それには1つの魅力がある。とにかくそれは新しいものである。
 それから私の死について熱心に話すことの出来るのは真に興味あることである。実際にそれは私を喜ばせる。ただ私のざんげ聞きのジュリアン以外に容易に聞き手を持つことが出来ないのは哀れである。
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by bashkirtseff | 2010-06-13 22:34 | 1882(23歳)

1882.12.26(Tue)

 いよいよ! 私は実際病気らしい。私に付いている医者は私を理解していない。彼は私をだますことに興味を持っていない。彼は私の右の肺が冒されていて、到底完全には治らないと言う。しかし私が健康に注意したならこれより悪くはならないだろうから、人並みには生きられると言う。そうだ、しかしこの病気の進みを過激な手段で止めることが必要なのである。──例えば焼灼作用とか、発疱法とかによって! ──要するに不愉快でないことなら何でも。発疱法、それは1年以上の黄色い汚れを意味する。私は夜会のためにそれを隠すように花束を右の鎖骨の上に付けねばならないだろう。
 私はもう1週間待ってみようと思う。もし併発症が固執するようだったらば、この不快を忍ぼうと思う。
 神はよこしまである。
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by bashkirtseff | 2010-06-13 22:19 | 1882(23歳)

1882.12.23(Sat)

 今夜私たちはかの偉大なる、真実なる、唯一の、比較なきバスティアン・ルパージュと彼の弟を晩さんに招待した。
 ほかには誰をも呼ばなかった。それが少しきまりが悪かった。彼らは初めて食事をしたのに、おそらくはあまりに親しげに彼らを取り扱うように思われたかも知れない。それに、私は彼らをもてなすことが出来ないかと恐れていた。──お分かりでしょう?
 弟の方について言えば、彼はボジダアルとほとんど同じくらいの親しさでもてなされた。けれども私たちの心はかの真実なる、偉大なる、唯一のうんぬんに向かっていた。その善良な小さい人は、例えば黄金で出来ているよりも重く値する才能を持っているが、彼はこのようにもてなされて非常に喜んでいるように見えた。何人もまだ彼を「天才」と呼んだ人はない。私と言えどもそうは呼ばない。私はただ才人として遇するのみである。そうして策略を持ってうれしがらせを飲み込ませるのみである。ボジダアルは日が暮れてちょっと来た。そうして非常に上機嫌で何でも私の言うことに同意した。私たちは彼を家族の1人のごとく取り扱った。彼はバスティアン兄弟のごとき有名な人に会うのを喜んでいた。
 けれどもバスティアンに私は称賛を極度に推し進めるように思われたくないために、彼をサン・マルソオと並べて、──「あなた方お二人は!」と言った。彼は夜遅くまでいた。私の描いたつぼの絵を彼は非常に良いと言って次の言葉を付け加えた。「こんな風に描いて行かねばいけません。辛抱して、集中して、出来る限り力を集めて、自然を周到に写すように努めねばなりません。」
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by bashkirtseff | 2010-06-13 22:17 | 1882(23歳)

1882.12.20(Sun)

 私はまだサロンに出すものを手に入れてない。何にも見つからない。──それは1つの苦悶だろう。……
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by bashkirtseff | 2010-06-11 08:00 | 1882(23歳)

1882.12.17(Sun)

 真実の、唯一の、独自の、大バスティアン・ルパージュが今日訪ねてきた。私は彼に見せるほどのものが何にもなかったので、途方に暮れて、恥ずかしく、悲しく、不作法にあしらった。
 彼は2時間以上いて隅を探して私の絵を見た。私は神経的になって、時々気まぐれに笑いに紛らして見せまいと努めたけれども。この大芸術家は非常に愛想の良い人で、私の気を静めようと努めた。私たちは、私の今の失望の原因なるジュリアンについて話した。バスティアンは私を社交界の若い婦人としては取り扱わない。彼の言うことはトニー・ロベール・フルリや、ジュリアンの言うことと全く同じである。ただジュリアンほど嫌に諧謔を弄しないだけである。ジュリアンは、もうすっかり駄目で、私には何物も完成する見込みはなく、全く望みがないという。それが私をいら立たせる。
 バスティアンは敬愛すべき人である。という意味は、私は彼の才能を敬愛する。私が彼の面前で途方に暮れたのは彼に払いうるもっとも丁重な礼であった。彼はミス・リチャアヅのアルバムにクロッキーを1つ描いた。そのアルバムには私も何か描くことを頼まれていた。絵の具が染み通って次の紙を汚したので彼はその間に1枚の紙片を入れてくれるようにと言った。
 ──そのままにしておきましょう。そうすると2枚描いてあげたことになりますから。──私はどうしてミス・リチャアヅに親切にしてあげねばならぬかを知らない。けれども時々私は期待していない人や、親しくしていない人に親切にしてあげて1人で喜ぶことがある。
 ある日私がグラン・ジャットで絵を描いていると、父親と4、5人の子どものぼろをまとった1家族が汚い着物をひとからげ担いで水の縁へ来た。それは引っ越しのように思われた。私は彼らに2フランをやった。その喜びと驚きを見るのは実に見ものであった。私は木の後ろに隠れた。──天はいまだ私をばそれほど良く取り扱ってはくれない。天はかの恵み深い空想を1つも現してくれない。
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by bashkirtseff | 2010-06-11 08:00 | 1882(23歳)

1882.12.14(Thu)

 けさ私たちは真実のバスティアンが田舎から持って帰った絵を見に行った。彼はせわしそうにその絵を直していた。私たちは友達のようにあいさつをした。彼は非常に親切で気取りのない人である。
 あるいは彼は完全ではないかも知れない? けれども非常に才能を持っている。実際彼は魅力に富んでいる。
 そうして気の毒な建築家は兄の光のために全く陰に投げ出されている。──ジュールは数枚の習作を持ち帰った。「村の宵」、1人の百姓が畑から帰ってくる途中で、出会った1人の女に話しかけている。女の家の窓には明かりが差して月が昇っている。夕暮れの効果が非常に著しく出て、すべてのものに行き渡っている。静けさを感じうる絵である。すべてのものが静まり返って、犬のほえる声が聞こえている。何という色だろう、何という詩想だろう、何という魅力だろう! ……
 ──ジュール・ブルトン(フランスの田園画家/1827-1906)──あなたの拳くらいの大きさの詩人と呼ばれる人──の行き方で、しかもそれよりずっと良い。
 それからまた1人の老人が働いている鍛冶場の絵がある。非常に小さいものであるが、ルーヴルにあるあの驚くべき小さい、黒い画布にも劣らないものである。これらのほかに風景や水やヴェニスやロンドル(ロンドン)の絵がある。それからイギリスの花売り娘と畑に出ている百姓の娘を描いた2枚の大きな絵がある。それは等身大であるが、私はびっくりした。彼の技量より劣っているように思われた。
 一目見てこの人の才能の移り気と力には驚いてしまう。この人の才能はその画風をある1つの行き方に限ることを潔しとせずして、あらゆる画風を巧妙に取り扱わせている。
 イギリスの子どもの方は2つの娘の絵よりもはるかに良く出来ている。Pas-mèche と題した去年の子どもの絵は実に傑作であった。
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by bashkirtseff | 2010-06-10 08:01 | 1882(23歳)

1882.12.07(Thu)

 ジュリアンとちょっと話をした。けれどももう以前のように長い話はしない! ……もう話すことは何にもない。何もかも言われてしまった。私たちはただ私が何物かを作り出すのを待っているのみである。しかし私は彼の不公平を非難する。そうして私を励まそうとする方法を非難する。
 私のパステルはある団体へ送られて、それからサロンへ行くはずである。──この上もなく良く行った、とジュリアンは言った。私は彼の首の周りに両手を投げかけたくなった。
 ──さて絵を描くならば美術家をして足を留めさせるようなものを描かねばならぬ。
 けれども今私にはそれは出来ない。ああ! 主よ、私はどんなに骨が折れても良いから勉強して、いつか成功することが出来たら! そう思うと私には勇気がでる。けれども今のところではそれは出来そうもなく思われる。
 私の仕事の良くないことは自分でも認めている。イルマを描いた後、私は父シャルルと雨の中を歩き回った。それからロシアへ行った。愚かな3カ月。そうして3カ月は12の習作と、12の等身大の胴と、12の半身大の構図を作り出した。私はそれまで続けざまにそんなものを4つと作ったことがなかった。ジュリアンの言うことは正しい。私は接吻したいほどに思った!
 けれども私は1年間病気であった!
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by bashkirtseff | 2010-06-09 08:03 | 1882(23歳)

1882.12.05(Tue)

 私は「オノリーヌ」を1度に読み終わった。そうして私はペンの崇高な雄弁を持ちたいと思った。私の書いたものを読んだ人に私のつまらない生活に興味を持たせるために。
 もし私のこの失敗とこのつまらない生活の記録が、私の求めている名声を与えてくれるとしたならば、それは不思議なことである。けれどもそのときには私はそれを知るはずはない。のみならず、人がこの日記を読んでこの日記の中にその人自らの道を見いだし得るためには、私がまず何者かであることが必要ではなかろうか? ……
 不確実と失望が私を怠惰にさせる。言い変えれば一夜中読書をさせる。その後で私は激しい後悔を感じる。けれども私は全く1人きりでいるか、でなければ家族の者と一緒である。それで私はばかになる。
 私は書きながら一言一言に注視している。なぜと言うに、私は私の経験したこの恐ろしい悩みと喪心と、恐怖を言い表すべき表現を見いだし得ないから。
 何事があったというのか? 何事もなかった。
 それではどうしたというのだろう? 私はただ10年生きて、急に才能が出来て私の空想を実現することが出来れば、喜んで満足するだろう。
 2、3日前私はオテル・ドルオットへ行った。そこには宝石の陳列会があった。母と叔母とヂナはいろいろの宝石を賞嘆した。けれども私はそれを皆嘲笑した。ただし驚くべき大きなダイアモンドの列だけはちょっと欲しくなった。けれどもそんなことは考えるべきではない。それで私は他日ある百万長者と結婚でもしたら、このくらいの大きさの耳飾りを持つか、しかし耳飾りには重すぎるから胸飾りにするかも知れないと考えて、それで満足した。──それは実際私が宝石というものを理解した最初であった。──ところが! 昨日の夕方その2つのダイアモンドは私のところへ持ってこられた。母と叔母が私に買ってくれたのである。私はぜひ手に入れたいと思ったのではなく、ただ「これだけはちょっと欲しいわ」と言ったきりであった。それは2万5千フランであった。色は黄色であるが、黄色でなかったら3倍はしたであろう。
 私はその晩一夜中彫塑を作りながらそれを隠しに入れて喜んでいた。ヂュソオトイはピアノを弾いていた。ボジダアルとほかの人たちは話をしていた。この2つの石は私の寝台のそばで夜を明かした。私は座っている間もそのそばを離れなかった。
 ああ! 何でも不可能に見えるものがこんなに手に入ったなら! ……例え黄色であっても、また2万5千フランの代わりにたった4千フランであっても!
 しかしこの大きな悲しみは言われなきことである。これは誰にも訴えられないことである!
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by bashkirtseff | 2010-06-08 08:10 | 1882(23歳)