カテゴリ:1879(20歳)( 83 )

1879.12.31(Wed)

 私は何かの病気にかかったに相違ない。非常に気が沈んでいたずらに泣きたくなる。アトリエを出てルーブルの店へ行った。押し合ったり駆けたりしている忙しそうなうるさい騒がしい群衆を、かぎ回る鼻や探し歩く目を描写するには1人のゾラを必要とするだろう。私は熱と神経で気が遠くなったように感じた。美しいアレクサンドリイヌ・パッチェンコに(神様私をお許し下さい)母は簡単な適当な手紙を出した。次に書いてあるのが私から彼女に出したもので、白い滑らかな紙に書いて、小さいMの字の上には金の王冠がかぶせてあった。──

親愛なるマドモアゼル、
私の弟があなたに母の同意をば伝えるでしょう。私は、あなたの幸福に対するあらゆる希望をお贈り致します。そうしてあなたが私たちの親愛なるポオルを彼が値するだけ幸福にしてあげて下さることを望みます。私たちの間にあなたを見ることの楽しみを待ちながら、私は心からあなたを抱擁します。
マリ・バシュキルツェフ

 それ以外に何を私から言うことがあるか? ポオルは彼のエルキュール(ヘラクレス)のような形と美ぼうを持ってすれば、もう少し良い結婚が出来るはずであった。今度の結婚は全くその娘のためである。だから私もそれを承認する。
 何という哀れな年の暮れだろう! ……11時になったら寝ようと思う。そうしたら真夜中にはよく眠って……良き運命の知らせを夢見るであろう。
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by bashkirtseff | 2009-01-06 14:35 | 1879(20歳)

1879.12.28(Sun)

 ポオルは結婚することになった。私も同意した。その訳を話しましょう。彼女は彼を愛して、彼と結婚することを非常に欲している。彼女は相当に知られた、同じ地方の、やや離れているが、近所と言って差し支えのない土地の、良い家庭に育って、若くて、きれいで、学問もあれば気立ての良い婦人である。彼女は、ポオルが Marechal de Noblesse〔貴族の将軍〕の息子であって、パリに派手な身内の人たちがいるというので、いくらか得意になっている。それだけ私も同意しなければならぬ。
 ロザリの不注意から、ポオルへあてた私の手紙は、ついに届かなかった。母も同意した。その娘は次の電報を母によこした。

うれしくぞんじます。ふかきかんしゃをははうえにささげます。なるたけはやくかえります。
──アレクサンドリイヌ

 その娘さんはパリの身内を気にしている、ことに高慢で気難しい私を気にしているということである。でも私は「否」というような人間ではない。私は彼女が愛するように愛したことがないから、人に迷惑を掛けるようなことをしようなどとは思わない。私たちが意地悪になりかけているというのはそれは容易に言えるかも知れない。けれども、同じ人間仲間に苦痛を与えることになるような場合には、2度とそのことは考えなくなる。もし私に煩もんがあるとすれば、人に煩もんさせれば私は治るでしょうか? 私が親切であるのは善意からではなく、そうしようと思うからである。それが私に苦しい。実際わがままな人間は善でないことをしてはならぬ。悪をなすには人は不幸すぎる。けれども世間には害悪をなす事を喜ぶ人間もあるようだ。……人は皆好き好きである。ことにポオルは紳農以上の何者にも決してなれないであろうから。
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by bashkirtseff | 2009-01-06 14:27 | 1879(20歳)

1879.12.14(Sun)

 ベルタに招かれて私はボジダルを連れて、カルチェ・ラタン、ブラアス・サン・スルピス、リュ・ムフタール、リュ・ド・ヌーヴェル、ラ・モルグ・リュ・デ・ザングレなどの町々を見ながら歩いた。
 私たちは1時間の4分の1ほど鉄道馬車で、それからまた歩いた。それが3時から7時まで続いた。昔からのパリの町ほど良いところはない。私はローマを思い出したり、デュマの小説を思い出したり、カジモドやその他面白いもののたくさんあるノートルダム・ド・パリを思い出したりした。
 私たちはある街角でクリを買って、靴屋で20分過ごして、そこで9フランほど使って、それから別の店に行ってあまり値切りすぎて怒られた。──まあ、マダム、あなたは7フランのことで大騒ぎをなさいますこと。これが毛皮の外とうだったらすぐにも200フランもお出しになるでしょうに! ──私は2000フランの毛皮を着ていた。
 ある街の角で、私たちの靴が音がしないので、ボジダルを先に行かせて、私たちはある戸口の陰に隠れていた。けれども先に見いだされた。それから私たちはムッシュ・A…の家具を運ぶために4頭立ての荷車を2台命じようと請負人の所へ2軒行った。
 ベルタは静かに詳しく話しだした。2つのグランド・ピアノ、湯槽、ガラス戸のはまった着物だんす、陶器類、玉突き台、といったような風に。それから私たちはあらゆる所へ行って、あらゆる人と下らないことを話してみたくなった。けれども、もう7時であった。それで馬車を雇わねばならなかった。ところが少し行くと馬が転んで、それで私たちは降りた。皆が馬を起こして、それから私たちはまた出掛けた。鉄道馬車には非常に貧しそうな夫婦者が私たちの隣に掛けていたが、驚いたことにはお互いに話し合っているのが、その若い婦人は汽車に乗って激動を受けて、両ひざが胸にぶつかって背中をひどく打ったというようなことを話していた。
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by bashkirtseff | 2009-01-06 14:21 | 1879(20歳)

1879.11.26(Thu)

 私たちはマダム・Gと一緒にそりで出掛けた。
 今夜の終わりは笑劇であった。婦人たちと公爵令嬢アレクシス及びブランはヴァリエテに出掛けたが、ヂナと伯爵ド・ツウルズと私は食器棚からシャンパンを取りだして、晩さんを済ますと、4人前の食器を並べて、私は白ぶどう酒に水を割って空になったシャンパンの瓶にそれを詰めて、念入りに栓をしておいた。foie gras〔脂肪の肝臓〕に対する同じようないたずらをもまた私は思い付いた。今に皆が晩さんに帰って来るであろう。彼らはかなり食欲が強くなっているかも知れない。
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by bashkirtseff | 2009-01-06 14:18 | 1879(20歳)

1879.11.25(Wed)

 私たちはドミニコ僧院に教父ディドンを訪ねた。教父ディドン(当時39歳の有名なドミニコ派の説教者で、イゼールのトゥヴェ(底本:「ツウヴェット」)に生まれた人である/底本:「ヂドン」)は最近2年間ことに有名になった説教者で、パリ中が今ではそのうわさをしている人であることを、あなたにお断りする必要もありますまい。私たちは訪問を前もって知らせておいた。私たちが着くと皆が彼を呼びに行ってくれた。私たちは机が1つといすが3つと小さい気の利いた暖炉が1つあるぎらぎら光る応接室で彼を待ち受けた。私は昨日彼の肖像画を見て、見事な目をした人であることを知っていた。
 彼は出てきたが、非常に愉快そうな顔つきをして、極めて世慣れた人らしく、白の毛織りの着物を着ているのが大層美しく見えた。その着物はいつか私が着ていた着物を思い出した。彼の頭は丸刈りの点を除けばカサニャック(ジェール(底本:「ゼルス」)からパリへ出て有名になった新聞記者/1806-1880/底本:「カサニャク」)のような格好であるが、ただし彼よりもさらに光っている。そうして目もさらに明るく、態度も上品でさらに自然である。顔はすでに荒れかけているが、口の辺りはカサニャックと同じような不愉快な曲がったところがある。けれども、非常に特殊な風采をしておって、極端な ereole〔植民地のフランス種〕の感じなどは少しもなく、首は真っすぐで、手は白くて美しく、快活な面白そうな人物である。彼が口ひげを生やしているところをあなたは見たいと思うでしょう。
 非常に確信があって、そのくせ非常に用意されたる機知を持っている。誰にでも良く分かるが、彼は自分の人気のどのくらいまで広がっているかを知っており、また人から尊敬を受けることにも慣れており、自分の周囲に起こる感動を心から喜んでいる。教母Mから前もって手紙で彼に珍しいものが見られるだろうと知らせてやった。それで私たちは彼の肖像を描かせてもらいたいということを話しだした。
 彼は拒まなかったが、若い婦人に教父ディドンの肖像を描くなどは困難なことでほとんど不可能だろうと言った。それほど彼は有名で、人に追い回されている。
 しかしそれが理由なのである。……私は彼の熱心な賛美者として紹介された。本当を言うと、私はこれまで彼を見たこともなければ、彼の話を聞いたこともなかった。けれども私は彼を今見る通りに想像していた。声の音調が普通の談話においてもなぜさせるような調子から恐ろしい爆発にまで変化した。私の感じているのは肖像画である。もしそれが約束できれば私は非常に幸運な人間になれるだろう。彼は私たちを訪ねてくると約束した。私はちょっとの間彼が約束を守らないでくれれば良いと思った。しかしそれはつまらない間違った考えであった。彼が座ってくれることを今私はどんなに希望しているだろう。大望ある芸術家としてはこれ以上に都合の良いことは世界中にないだろう。
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by bashkirtseff | 2009-01-05 12:33 | 1879(20歳)

1879.11.24(Tue)

 37番のアトリエを借りて、ほとんど装飾も出来上がった。
 今日は1日そこで暮らした。ねずみ色の壁をした大きな部屋である。私は2枚の悪いゴブリンを持っていって壁の下の方を隠した。それからペルシアのじゅうたんと、支那のござと、大きな四角なアルジェリアの布団と、モデル台と、美しい織物と、柔らかい暖かい色をした大きな綿繻子の窓掛けなどを持っていった。
 それからたくさんな塑像。すなわち、ミロのヴィーナス、メディチのヴィーナス、ニームのヴィーナス、アポロン、ナープルのファウヌス〔牧神/底本:「フォウヌ」〕、筋肉模型、浮き彫り、など。また、外とう掛け、水盤、4フラン25サンチームの鏡、32フランの時計、いす、暖炉、引き出しを絵の具入れにしてある机、茶道具一式、インクつぼとペン、おけ、缶、たくさんな画布、幾枚かのカリカチュール、習作、写生画など。
 明日は少し絵が描けようと思う。それで私の絵がまずく見えるようになりはしないかと心配でもあるが。その他、腕とか、足とか、頭蓋骨とか、道具箱とか、そんなものを持ってくるつもりである。それでアンチニュスに頼まねばなるまい。
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by bashkirtseff | 2009-01-03 15:20 | 1879(20歳)

1879.11.23(Mon)

 私たちはジュリアンを正餐に招待に行った。けれども彼は10万も20万も難癖をつけて断った。それは私に対する威厳がなくなるとか、少しでも彼が好意を寄せるように見えるとひいきのように思われて皆の間がうまくいかなくなるとか、晩さんに招待して金があるから勝手なまねをするつもりだと言われたりするだろうとか、そんなことを言った。彼の言ったことは正しい。ほかの人たちの考え方はひきょうである。エスパアニュの娘たちはそれをブレスロオに用いた。ブレスロオは私の腰元だと言われたのを聞いて、私にひどく当たるようになってしまった。
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by bashkirtseff | 2009-01-03 15:18 | 1879(20歳)

1879.11.21(Sat)(もとのまま 以下同じ)

 私は模写を彼の所へ持っていった。「まだしっかりしていませんね。」来週はもっと描いてみようと思う。ルーベンスの首を2つ、ロベール・フルリ大人の模写、とそれから1つの小さい画布、ただしこれは原画である。
 私は彼が彼の天井のためにルクセンブルクで写した模写を非常に賛美したところが、彼はもっとも丁重な態度でそれを私へ差し出して、分かってくれる人にあげるのは大きい喜びだと言った。
 ──でも、ムッシュ、あなたの絵が分かる人はいくらもありましょう。……
 ──でも否、そうでありません、そうでありません。……
 私はもう彼に慣れて、今では少しも怖くはなくなった。2年間毎週1、2度ずつ会っていた後で、今彼と話したり、外衣を着せてもらったりするのは何だかおかしいようである。いま少したったら、私たちは友達になるかも知れぬ。もしそれがあの肖像画のためでなければ私は全く幸福である。なぜと言うに私の先生は私に対して出来うる限り親切であるから。
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by bashkirtseff | 2009-01-03 15:17 | 1879(20歳)

1879.11.19(Wed)

 今夜ロベール・フルリが尋ねてきて、私にいろいろ忠告を与えてくれて、それから私たちは私のアトリエでサモヴァルを取り囲んで楽しい宵を過ごした。彼はランプをどんな風にともせば良いかということを丁寧に私に教えてくれた。トニーは報酬も受けていなければ、その他の利害関係も持っていない。その上彼はまじめな人である。今夜彼はマダム・ブレスロオに言ったことを繰り返して、学校では彼女の娘(マドモアゼル・ブレスロオ)と私だけが才能があって、ほかの人は皆駄目だと言った。彼は一人一人を批評して、彼らの気取りを素っ気なく取り扱っていくのを見るのが私には面白かった。
 彼は私を陰でのみ褒める。けれども、きっと成功するからやめてはいけないと言って勧めてくれた。素人としてならば私はすでに才能を備えているが、もう少し高いところを望まねばならぬと言った。もう少し堅実な行き方をしたならもう少し進むはずだと言った。これからは特別に良く見てあげようと言った。家へも来て忠告してくれると言った。年中アトリエばかりにいないで、時々はモデルを連れて帰って家で描いたり、夜は塑像をしてみたりするが良いとも言った。彼はそのうちシャピユを連れてこようと言った。
 要するに私は全く彼の世話ばかりになっている。それで私は何とかしてそれに報いたいので、私の塑像を小さいのでよいからひとつ描いてくれるようにと頼んだ。そうしてこれがあまり高くかかりはしまいかと思ってせっかくの私の幸福が減ってきた。
 この人は絶えず話したり忠告したりして実に愉快であった。私を悩ますものは模写をすることである。
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by bashkirtseff | 2008-12-26 09:19 | 1879(20歳)

1879.11.15(Sat)

 私はゾラを賛美する。けれども誰でも言うことで私の言いたくない、また書きたくもないことがある。しかしそれは恐怖だと思われてはならぬから言っておきますが、1番悪いのは purge〔くだす〕という言葉である。私は canaille〔賤民〕とかそういった種類の言葉を用いることにはちゅうちょしないが、ただしあの小さなたあいもない汚い言葉は嫌でならない。
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by bashkirtseff | 2008-12-26 09:16 | 1879(20歳)