1878.05.31(Fri)

 うちの人たちはシャトレ(底本:「シャトレエ」)にある féerie〔夢幻劇〕を見に行った。私も一緒に行った。1つを見ればすべてを見たことになる。私は飽き飽きした。私は幕の上に書いてある広告の文句を機械的に眺めながら、自分の生活がすでに光彩を失っていること、しぼんでいること、及び使い果たされていることを考えていた。かくのごとき空白を、かくのごとき荒涼を自分の身の回りに感じるのは悲しむべきことである。事実、私は今それを知っている。私は以前は自分が何物においても幸福になれるように生まれついたと思っていた。今では何物においても不幸であることを知っている。それは同じことである。ただ正反対になっているのみである。しかし私が期待すべきものを知った瞬間から、その悲しみは全く耐えられるものとなって、自分で心の用意が出来ているから、もはや悲しくはなくなった。
 私はあなたに保障するが、今言っていることは私の実際に考えていることである。耐えられなかったことは、私の近親の人たちに常に幻滅を感じさせられたことであった。花を探して蛇を発見したのであるから、それは実に恐ろしかった。けれどもその驚きは私に無頓着になれということを教えてくれた。今では周囲に何事が起こりつつあっても、私は馬車から首も出さないで、真っすぐにアトリエの方へ進んでいく。
 私は目をつぶったり、これを読んだりする。
 あなたは恐らく思うでしょう。これは絶望のあきらめであると。それは絶望から来たものである。けれどもそれは穏やかな静かな心持ちである。悲しくはあるけれども。
 すべてがばら色でなくて灰色になっている。それだけのことである。その決心さえ出来れば、心は平静になれる。私は今までの自分というものが無くなったように思う。多分それは一時的のことではなくて、現にそう変わってしまったのだと思われる。自分ながら不思議でもある。けれどもそれは事実である。私は金などは欲しくも何ともない。1年に黒いブラウスが2枚もあればたくさんだ。シャツは日曜日に1週間分を洗っておけばよい。食物はどんなにまずくても、タマネギの味さえしなくて、新鮮であればたくさんだ。それは──つまり仕事をしたいということである。私の望みはそれだけである。
 馬車もいらない。つじ馬車か、歩いて行けば良い。靴もアトリエではかかとのないのを履いていよう。
 それなら何のために生きているか、何のために? ええ、言うまでもなく、もっと良い日が来るという希望のために。決して私を見捨てない希望のために。
 物は皆関係がある。だから、例えば、過去の不安に比べれば私の現在は安易である。私はそれを好ましい変化だと思っている。1月には私は19になる。ムッシアも19になる。そんなことはあり得ない。それは恐ろしいことである。
 時々私は着飾って、外出して、オペラとかボアとかサロンとか展覧会とかへ顔を出したくなることがある。けれどもそんな時にはすぐ自分で自分に言う、それは何になるか? と。そうしてまた元の冷淡な心持ちに返るのである。
 私はどんな言葉でも2つ書く間に100万の思想がわく。思想を表せばただ断片となる。
 後世にとっては何という不幸であろう。
 いや、それは後世にとっての不幸ではなく、私が自分を理解してもらえないまでのことである。
 私はブレスロオがうらやましい。彼女は少しも女らしい描き方をしない。
 来週はうんと勉強しようと思う。──見ていて下さい。午後は展覧会へ行ったり、サロンを見たりして過ごすつもりである。
 でもその次の週には、──私は大芸術家になっているつもりである。また、なれるだろうと思っている。
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by bashkirtseff | 2008-11-15 11:57 | 1878(19歳)
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