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1877.10.08(Mon)

 午前は首の新しいモデル、これは寄席へ出る歌い手か何かで、モデルになっていない時はいつも歌っているのである。そうして午後は裸体習作(アカデミ)として一人の若い娘。
 この娘はまだ17だという。けれども一見して甚だしく荒廃している。こんな種類の娘たちは恐ろしい生活をしているということである。
 姿勢が難しいので私は困った。すべて人が裸になるのを恥じるのは、自分の欠点が気になるからである。もし皮膚に一点の汚れがあるでなく、筋肉の形が悪いというでなく、足の姿が醜いというでなかったら、誰でも着物を着ないで出歩いても恥ずかしいと思いはしないだろう。人はこれを真理として実感してはいない。けれども恥ずかしがるというのはこれにほかならない。美しいものまたは誇るべきものを人に見せたいと思う心をば誰が抑えうる者があろう! 王カンドール(リディア(底本:「リヂア」)王カンダウレス・その妻の美をギュゲス(底本:「ギゲス」)に見せ、ギュゲスと妻のために殺された/底本:「カンドオル」)以来誰が自分の宝とか美とかを誇らないで自分一人で隠しておいた人があるだろう? しかし人間は顔には容易に満足するけれども、体に対しては本能的に気難しいものである。
 羞恥(しゅうち)の念はただ完全なるものの前でのみ消える。美は全能なものであるから。あなたがもし「実に美しい!」と言わないで、何かほかの言い方をする時は、そのものが本当に美しいのでなく、非難または別の意見の出る余地があるからである。
 今度アトリエに来た女は、真っすぐな、少し太ってはいるが、きれいな指をして、そうして、規則正しい、大き過ぎない、ただしいくらか形の悪い足をしている。
 私は今完全な美はその他のすべての観念を寄せ付けないものだと言った。これは完全なものでさえあらば何でも皆同じことである。音楽を聴きながらもし舞台装置の欠点に気がつくようであったら、その音楽は優れていないのである。また英雄的行為が称賛以外の感情を許すようであったら、それは人の考えるほどに英雄的なものではないのである。
 あなたの見たり聞いたりするものが、それ自身でもしあなたが心を満たすほどに大きいものであったら、そのときだけは全能であると言うことが出来る。
 もし女の裸体を見て、それを良くないと感じるようであったら、その女は美の最高の表現ではない。何となれば、あなたの心の中には目から頭へ行く以外の考えがわき起こっているのであるから。あなたは美を忘れて、裸のことばかり考えている。だから、その美はあなたの全身を占有するほどに完全なものとは言われない。そんな場合は自分をさらしている方では恥ずかしくなり、見ている方では不快になる。
 そこでこういうことになる。人は他人に認められないことが分かると恥ずかしくなるが、しかし認められると、それは当然であってもまた恥ずかしくなる。要するに完全と絶対の美が非難を退ける。と言うよりは、非難を生ぜしめない。そうして羞恥の念を抑制する。
by bashkirtseff | 2007-07-28 20:45 | 1877(18歳)
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