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 欺いたり気どったりして何になろう? 本当に、私はどんなにしてもこの世の中に生きていたいという、望みはないまでも、欲望を持っていることは明らかである。もし早死にをしなかったら、私は大芸術家として生きていたい。しかしもし早死にをしたらば、私のこの日記を発表してもらいたい。これはおもしろくないはずはない。──けれども私が発表のことを言ったりすると、読まれたいという考えがあるいはすでにこういう書の唯一の価値を傷つけ破りはしまいか? いや、決して! ──なぜというに、第一、私は長い間読まれたいという考えなしに書いていた。次に、私があくまでまじめであるというのも、つまりは読まれたいと思うからである。もしこの書が正確な絶対な厳正な真実でないならば、存在価値(レーゾンデートル)はない。私はいつもただ私の考えているだけのことを言うのみではなく、またあるいは、私をこっけいに見せるかも知れず、私の不利益となるかも知れぬことをも隠そうと思ったことはなかった。──その他の点では、私は非難されるには自分が余りに立派だと思っている。──それ故に、厚意ある読者よ、私はこの書において全く完全に自分をさらけ出すのだと信じてください。私というものは、個人的には、あるいは、あなたにとってあまり興味はないかも知れません。しかし、それが私だと思ってはいけません。こう思ってください、ここに1人の人間があって、子供の時からのすべての印象をあなたに話すのだと。それは人間の記録(ドキュマン・ユマン)としておもしろからぬはずはありません。ムッシュ・ゾラにでも、ムッシュ・ゴンクウルにでも、またはモーパッサン(底本:「モオパッサン」)にでもお聞きなさい。私の日記は12歳の時に始まって、15、6歳からいくらか価値を持ち始めます。だから埋めらるべき空虚があるわけです。それで序文のようなものを書き添えて、読者をしてこの文学的な人間的な記録をたどるに便利ならしめようと思います。
 まず、私を有名だと仮定してください。これから始めます。
 私は1860年11月11日(#露歴。西暦では+12日で11月23日であるとか、24日であるとか諸説ある)に生まれた。これを書くだけでもおそろしくなります。しかしあなたがこれを読むころには私はもう年というものがなくなっているのだと思いついて自ら慰めています。
 私の父は将軍(ゼネラル)ポオル・グレゴリエヴィチ・バシュキルツェフの息子で、地方の貴族で、勇敢な、頑固な、過酷な、かつ凶暴な人であった。私の祖父はクリミア戦争(底本:「クリメエ」)の後で将軍になったのだと思う。彼はある高官の養女であった1人の若い娘と結婚した。彼女は38歳で死んで、5人の子供を残した。私の父と4人の姉妹とを。
 母は21の年に結婚した、それまでにずいぶん良い縁組(パルチ)を幾つもことわって。母の処女名はババニヌであった。ババニヌ家の側からいうと、私たちは地方の古い貴族ということになる。祖父はいつも自分が韃靼(だったん)人の流れで、最初の侵入(1238年)の時からの家柄だと言って誇っていた。ババ・ニナは韃靼の言葉である。しかし私はそんなことは笑っている。……祖父はレルモントフ(1814-1841)やプーシュキン(底本:「プウシュキン」/1799-1837)などの同時代人であった。彼はバイロン賛美者で、詩人で、軍人で、文士であった。彼はコーカス(底本:「コオカス」)にいたことがあった。……彼はまだ非常に若いころに、芳紀15の、非常にやさしくて美しい、ジュリ・コルネリアスという少女と結婚した。彼等は9人の子供を持った。少ないけれど許してください!
 結婚して2年後に、母は2人の子供をつれて両親の所へ帰った。私はいつも祖母と一緒であった。祖母は私を大事にしてくれた。祖母の例に倣って叔母も、母につれて行かれない時は、私をかわいがってくれた。叔母は母よりずっと若かったが、美しくはなかった。そうしてみんなのために犠牲になったり、犠牲にされたりしていた。
 1870年の5月の月に、私たちは外国の旅へ出た。母の長い間の夢がついに実現されたのであった。ヴィエンヌで私たちはひと月をすごして、新奇なものや、きれいな店や、劇場で目を覚まされた。それからバーデン・バーデン(底本:「バアデン・バアデン」)に着いたのが6月、季節(セエゾン)のさかりで、華美の盛りで、パリ風の盛りであった。私たちの一行は、祖父、母、叔母ロマノフ、ヂナ(私の従妹)、ポオル(マリの弟)、及び私であった。ほかに私たちは天使のような比類のないルシアン・ワリツキという医者をつれていた。アクチルカで彼は開業していた。以前母の弟と一緒に大学に学んで、いつも家族同様にされていた。私たちが旅に出る時、祖父のための医者が必要なので、ワリツキをつれて行くことにしたのである。それはバーデンであった。私が世間を知り、華美を知ったのは、そうして虚栄に苦しむようになったのは。……
 しかし私はまだロシアのことも、私自身のことも、それが一番主なことであるのに、何にも言ってなかった。貴族の家庭の習わしとして、私には2人の家庭教師が付いていた。1人はロシアの婦人で、今1人はフランスの婦人であった。前者(ロシア婦人)は、今でもよく覚えているが、マダム・メルニコフとかいって、教養のある、ロマン的(ロマネスク)な、立派な婦人で、夫と別居していたが、小説をたくさん読んでから教師になったのである。彼女は家族の友だちとなり、家族同様の取扱を受けていた。男はみんな彼女にこびを送っていた。するとあるうららかな朝彼女は逃げた、私は知らないが何かのロマン的な事件があった後で。──ロシアではみんな実にロマン的である。──彼女はさよならを言って、いつものような風で去ろうと思えば、そうすることも容易に出来たであろう。しかしスラヴの気質がフランスの文明とロマン的の読書で接木されると変わり種になってしまう。この婦人は不幸な妻の持ち前として、自分の監督すべき少女をすぐにかわいがるようになってしまった。私は戯曲的に適当なある本能的の感情でそのかわいがりに報いていた。それでposeuse〔気どり屋〕であり単純であった私の家族の者たちは、彼女がいなくなったので私が病気になるだろうと思った。その日はみんなが同情の目で私を見た。私は祖母が特別に私のためにスープを、病人用のスープを、こさえさせたのを覚えている。私はそんな感情を見せつけられると、いつも自分で青ざめてしまうのを感じた。私は、実際、どっちかと言うと、病身で、脆弱(ぜいじゃく)で、少しもきれいではなかった。──と言って、それがために、私が将来美しい輝かしい立派な女になる運命があると考える人の邪魔にはならなかった。母はある時1人のユダヤ人の占者の所へ行った。
 ──あなたにはお子さんが2人おありです。占者が母様(ママン)に言った。お坊ちゃまの方は人並みの方になりますが、お嬢さまはえらい方におなりです。
 ある晩、劇場で1人の紳士が笑いながら私に言ったことがあった。──
 ──お嬢さま、ちょっとお手を拝見させてください。ははあ、この手袋のはめ方で見ると、あなたは今に大変な男たらしになりますね。
 私はこう言われたのが長い間得意であった。私は物心がついて以来、3つになって以来、(3歳半になるまで私は乳を離れなかった、)私はいつも何かえらい者になろうという心持ちでいた。私の人形は王とか女王とかばかりであった。私の考えることも、母の周囲の人たちから聞くことも、皆、今に私がきっとえらくなるというようなことに関連していた。
 5つのころであったが、ある日、私は母のレースを着て、頭に花を付けて、客間に出て踊ったことがあった。私は踊り子のペチパになった。家じゅうの人たちがみんな私を見に来た。ポオルはほとんど顧みられなかった。ヂナは、愛するゲオルグの娘であったけれども、私に別にそねみも抱かなかった。──またこういう話もあった。ヂナが生まれると、祖母が私の手からヂナを取り上げて、ずっと自分の所へ置いていた。それは私の生れないうちのことであった。
 マダム・メルニコフの次に、私はマドモアゼル・ソフィ・ドルギコフという16の少女を家庭教師に持った。──神聖なロシアよ! ──その次に来たのはマダム・ブレンヌというフランス婦人で、青白い目をして、王政復古時代(17世紀後半)の風に髪を上げて、50の年と肺病のために悲しそうな顔つきをした人であった。私はその人が非常に好きであった。その人は私に絵を教えた。私は彼女と一緒に小さい教会堂の絵をかいたことがあった。実際私はいろんな絵をかいた。大人の人たちがトランプをして遊んでいる時に私は傍らに腰かけてよくその青いテーブル掛の上で絵をかいていた。
 マダム・ブレンヌは1868年にクリメエで亡くなった。小さいロシア婦人の家庭教師(ソフィ・ドルギコフ)は家の者同様の取り扱いを受けていたが、ある若い男と結婚することになっていた。その若い男というのは医者から紹介された人で、それまでに何度も間際まで来てははねつけられていたと言う話であった。今度は何もかもすらすらと運んでいた。ところが、ある晩、私がマドモアゼル・ソフィの部屋に入って行くと、彼女は鼻を布団の中に埋めて泣き崩れているのを見いだした。みんなが来た。私は叫んだ。
 ──あら、どうしたの?
 ついに、おびただしい涙とすすり泣きの後で、その気の毒な娘はどうしても、どうしてもいやだと言って、また泣き出した。
 ──なぜなの?
 ──だって、だって、私にはあの顔がきらいでならないんですもの!
 若い男は客間からこれを皆聞いていた。1時間後に、彼は行李(こうり)をまとめて、ひどく泣いて、帰って行った。それではねつけられたのが17度目ということであった。私は今でも、「あの顔がきらいでならないんですもの!」と言った言葉をよく覚えている。それは心の底から出た言葉であった。私は嫌いな顔をした人と結婚するのはどんなに嫌なことだろうということがよくわかった。
 それから1870年のバーデンへ話が戻る。戦争(フランスとプロイセンとの戦争)が宣言されたので、私たちはジュネーブ(底本:「ジュネエヴ」)へ逃げた。心の中で私は非常に不平で、いつかこの仕返しをしてやろうと思っていた。毎晩、寝る前に、私は小声でお祈りにこういう文句を付け足していた。
 ──私の神様、どうぞ私は疱瘡(ほうそう)にかからないようにお恵みください。私はきれいになるようにお恵みください。声もよくなるようにお恵みください。母様も長生きをするようにお恵みください!
 ジュネーブでは湖の縁にあるオテル・ド・ラ・クロウンヌに泊っていた。私は絵の先生を雇った。その人は模写する手本を持って来てくれた。──それは小さいchalets(シャシェ)(スイッツル特有の小屋)の絵で、窓が木の幹のようで、もっとも本当のchaletsの窓には似ていなかった。私は描くのはいやだと言った。するとその老人は、それなら窓から見た景色を写生しなさいと言った。そのころ、私たちは宿屋(オテル)を出て、モン・ブラン(アルプスの一つの峰、15781フィート)をまともに見る家を間借りしていた。それで私は念を入れてジュネーブとその湖の景色をかいた。描くのはそれきりで止めた。なぜだかは覚えていない。バーデンでは、写真を手本として肖像画をかかされた。そうして、それで滑らかにきれいにこさえ上げられて、みっともないと思った。……
 私が死んだならば、自分では著しく思われるこの私の伝記が人に読まれるであろう。(ただ1つの欠点はそれが普通と変わっているということである。)しかし私は序文とか出版社の前付けとか言うものが嫌いである。それがために私は善い本をかなりたくさん読まずじまいにしたことがある。そんなわけから、私は自分で序文を書いたのである。これとても、私の日記の全部を出版したらば省略してよいのである。けれども私は13歳の時から始めることにした。それ以前のものを入れると余りに本が大き過ぎると思うから。それに、読者はこの日記を読んで行くうちに以前のこともわかるだろうと思います。なぜというに、私はいろんな理由から時々過去へ帰ることがあるから。
 仮に、今、私が自分では死ぬことに気がつかないような病気に急にかかったと思って見てください。多分私は自分の危険を知らずにすむでしょう。内の者は私に隠して置くでしょうから。そうして私の死んだ後で、私の引き出しが捜されるでしょう。そうして私の日記が出て来ると、それを読んだ上で、引き裂いてしまうでしょう。するともう私のことはなんにも残らなくなってしまう。……なんにも、……なんにも、……なんにも、……私がいつも恐れているのはこのことである。生きて、大きな望みを持って、苦しんで、泣いて、もがいて、そうしてついに忘れられてしまうのである! ……忘れられて……まるで私というものが存在しなかったかのごとくに。私が有名になるほど長生きが出来なかったとしても、この日記は自然主義者にとっては興味あるものだと思う。世界中の人が誰一人読んでくれるものもないのに、読んでもらいたいというような風で、少しも包み隠す考えはなく、毎日毎日書いていた、ある一人の婦人の生涯の記憶が、おもしろくないはずはないと思う。なぜと言うに、私は自分に同情の心の強いことと、そうして何もかも皆書いてあることを知っているから。そうでなければ、何の必要から私が書きましょうか。実際、私が何もかも包まず書いたことは今にすぐわかるだろうと思います。……

パリにて、1884年、5月1日
by bashkirtseff | 2004-10-03 22:37 | 序(25歳)
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