はしがき

 これは1人の女の生活の記録である。
 マリ・バシュキルツェフが彼女の名前であった。ロシア風にかつ完全に言えば、マリア・コンスタンチノヴァ・ヴァスキルツェワというべきであるが、早くから郷国を見捨てて一個の世界人(コスモポリト)となり、殊にパリの生活を好んで、フランス語で話しフランス語で書いていた彼女は、自分の名前をもフランス流につづるのを常としていた。
 マリ・バシュキルツェフは1860年11月小ロシアのポルタヴァ(底本:「ポルトヴァ」)に生まれ、1884年10月パリで死んだ。生年24歳であった。彼女は早く死ぬためであったか、時間に対して最も敏感で、例えば1873年5月6日の日記には既に、

 私は13である。こんなに時間を空費していては、これから先どうなることだろう?

と嘆息している。満13歳の少女として、これはたしかに異常であった。誰しも自分の生きる日に限度のあることを意識することはあるが、彼女は常住不断にそれを意識して自分を鞭撻(べんたつ)した。1877年8月23日のくだり(底本:「条下」)には、

 私は直に18になる。18という年は35の人から見ればわずかなものであろうが、私にとってはわずかなものではない。

と言っている。この焦燥は彼女がこの世に強く生きようとする衝動から来ている。彼女は早くから自分を勝利と感動とのために造られた人間だとして意識していた。彼女はまず声楽家になって舞台の上の名誉を得ようと考えた。そうしてイタリアで修行をした。けれども彼女の声は激しい練習に耐えられないことを発見して、その希望をば捨てねばならなかった。その次に彼女は美術家になろうと志した。1877年7月14日(#1877年8月7日)の日記によれば、その時彼女は神のおぼしめしにより芸術家としての自信を抱いている。彼女はジュリアンの塾に通って、文字通りに夜を日に継いで絵をかくことに刻苦精励した。この努力はそれから7年間、彼女がこの世を去るまで続いた。その結果、1880年にはサロンに1つの肖像画を出し、それからは毎年出品して、最後の年には有名な「出あい」をもって成功した。1885年パリでマリ・バシュキルツェフの遺作展覧会が開かれた時、詩人フランソア・コッペエはその陳列目録に追想記を書いて、その中で特に「出あい」を傑作として称揚した。「出あい」の写真はこの翻訳の下巻に挿入される予定であるが、それを見ればほぼわかるであろうごとく、彼女の画風は写実的な所に強みがあった。それは彼女がゾラの崇拝者であったのをもっても推定されるように、当時のフランスの写実主義思想の影響と、及び彼女が特に見に行ったヴェラスケス一派の画風の感化であったに相違ない。
 マリ・バシュキルツェフはその製作のために命を縮めた数点の絵の外に、最も特筆すべき貴重な記録を残した。それがここに翻訳された日記(1873年──1884年)である。これは全く独特の書である。昔から多くの人によって書かれた日記の数はおびただしいものであるが、その多くは人に読まれることを期待しないような顔をして、その実ひそかに読まれることを期待して書かれたのに反し、この日記はあからさまに人に読まれることを期待して書かれてある所に特色がある。人に読まれることを期待しているから、それだけまた忠実に自分を写し出さねばならぬことを彼女は感じていたに相違ない。彼女自身の言葉によって、そのことをば判断してもらいたい。

 私は自分が将来どうなるかは知らないが、この日記だけは世界に残すつもりである。
 私たちの読む書物は皆こさえ物である。筋に無理があり、性格にうそがある。けれどもこれは全生涯の写真である。ああ! こさえ物はおもしろいが、この写真は退屈だ、とあなたはいうでしょう。あなたがそんなことをいうならば、あなたはひどく物のわからない人だと私は思います。
 私はこれまで誰も見たことのないような物をあなたにお見せするのです。これまでに出版されたすべての思い出、すべての日記、すべての手紙は、皆世界を偽るためのこさえ物に過ぎません。
 私は世界を偽ることには少しも興味を持っていない。私には包むべき政略的の行為もなければ、隠すべき犯罪の関係もない。私が恋をしようとしまいと、泣こうと笑おうと、誰もそんなことを気にかける人はありはしない。私の一番心にかかることは、出来る限り正確に私というものを表したいことである。(1876年4月19日

 出来る限り正確に自分を表したいというこの自己表現の衝動は彼女に早くから芽ぐんでいた。彼女は声楽家として、はた画家として、世界に名を上げたいと思った時でも、同時に日記に自分を書き留めて置いて自分の生活を不朽にしたいという考えをば忘れたことはなかった。それ故に、どんなに苦しい思いをしている時でも、どんなにうれしいことのある時でも、彼女は必ずまず親愛なる彼女の日記の所へ行ってペンを取った。自分を表わし書き留めることが彼女には楽しみであった。彼女は時としては徹夜するようにして書くこともあった。実際、彼女は日記を書くことによって自らを高めつつ進んだ。彼女は大勢の家族に囲まれて大事にされたが、常に心の孤独を感じていた。その孤独の唯一の慰謝者は実に日記を書くことであった。彼女は日記において常に自らと語っていた。
 彼女の父と母は彼女が8歳の時に別居することになり、彼女は母と叔母と従姉と祖父とその他家庭医、侍女等と共にロシアを見捨て、冬はフランスの南部海岸またはイタリアで暮らし、夏はドイツの山地で過ごし、その他の月日をば主としてパリで送った。彼女の性格に一見世界人らしいところの表れているのはそのためであろうが、しかしよくよく見ると、何といっても彼女はロシア人であった。彼女は日記の自序の中で、1人の家庭女教師について批評を下して、スラヴの気質がフランスの文化とロマンチックな趣味教育とで接ぎ木されると、1つの変り種を作り出すといっているが、それは彼女自らにも当てはまる批評である。
 彼女の日記を書く態度は、書いている女と書かれている女と、人格が二つに分裂しているかのごとき状態であった。彼女の半分は行為者で、他の半分は批判者であった。半分で芝居をして、他の半分でそれを観ているという有様であった。そうして芝居をしている方の半分はむら気な野心の強い女であったのに対して、観ている方の半分は冷静な無遠慮な批判家であった。彼女は隠れて自分の方へ向かって来るものを知りたがった。真実と知り合いになることは彼女にとって何よりの期待であった。それ故に、書かれている者の苦しみは書く者にとっては何でもないという奇妙な現象を、彼女は彼女自らについて体験している。(1877年5月30日。)
 マリが自己を観察して発見した物の1つは虚栄心であった。「虚栄(ヴァニテ)! 虚栄! 虚栄!」彼女は叫んだ。「すべての物の初まりであり、かつ終わりである。そうしてすべての物の永久のかつ唯一の原因である。」(1876年4月5日。)彼女の虚栄心は彼女を芸術の方へ追い立てた。彼女は美ぼうをも熱望し、自分の若い肉体の容姿に自信をも持ったが、しかし芸術家として自分を表すことの方に重きを置いた。それは芸術の方が彼女の虚栄心を永久に満足させ得るからであった。しかしひところは芸術家になるよりも女王になることを一層熱心に夢みていた時代もあった。
 彼女は虚栄心に次いで情熱を重く考え、「虚栄心と情熱とは世界のふたりきりの主人である」と思っていた。それほどまた彼女自ら情熱に富んだ少女であった。この情熱は後に固定した洩れ口を見いだして、彼女が専念芸術に没頭するようになるまでには、さまざまの形を取って表れた。その表れ方の著しいものは愛情であった。
 彼女の日記に出てくる愛人は3人ある。第1は彼女がニース(底本:「ニイス」)で見たイギリスのある公爵(デュク)であった。その時彼女は13であった。彼女の言った言葉で言えば、その公爵を彼女は往来で1、2度ほど見たことがあるに過ぎなかった。言葉を交わしたことなどは一度もなかった。それにもかかわらず彼女がいかに熱烈な崇拝心を彼にささげていたかは、その頃の日記が証明している。その記事を7年後(1880年)に読み返して、彼女は何らの感情も起こらないと追記している。(164頁。)これを愛ということはあるいは正しくないであろう。彼女は愛するような心境を愛したに過ぎなかったのであるから。
 第2の感情はローマ(底本:「ロオマ」)で醸された。対象は伯爵(コント)アントネリの息子で、彼は法王の候補者として擬せられていたある大僧正(カルディナル)の甥であった。彼は彼女を愛し、彼女も彼に興味を持った。その興味が果たして厳密な意味での愛であったかどうかは簡単にきめられない。彼女は彼を手近に引き寄せて、彼女を愛せずにいられないように彼に仕向けた。そこに少なからぬ技巧があった。そうして置いて彼女は一定の距離以内に彼を踏み入らせなかった。その態度は彼女を一個のほとんど完全なコケットとして表している。そうしてコケットであるのは彼女だけでなく、すべての女が(少なくともある時期において、ある程度までは)皆コケットでないかと感ぜしめるような告白の仕方を彼女はしている。これは彼女が16歳の時のことで、この時は、3年前のイギリスの公爵に対する情景よりも強く情熱を燃やし立てた。それをまた5年後に読み返して、彼女は決して彼を愛してはいなかったと断っている。(1876年5月17日のくだり(底本:「条」)の追記。)そうして、それはすべてロマンを求めるロマンチックな空想の結果に過ぎなかったと弁解している。あるいはそうであったかも知れぬ。何となれば、我々はピエトロ(アントネリ)の代わりに他の青年を置き換えても、それが彼と同じ条件(その中には殊に社会的地位の高いことが省かれてはならぬ)をさえ具備していたならば、同様に彼女の情熱を満足させたであろうと思われるから。しかしあるいはそうでなかったかも知れぬ。何となれば、彼女はその当時「私は彼を愛していないと言った時でもやはり彼を愛していた」というような微妙な心の動き方を告白しているから。
 彼女の愛の1つの特徴は、それが遊戯に類する表現の形式を取ることが多いのと、それだけまた余裕があって、従ってどんなに熱烈に見えても、その中に惑溺(わくでき)する恐れのないことであった。怜悧(れいり)なる彼女の半分は常に彼女の他の半分の痴態を監視した。彼女はそれがためにいかにしばしば悩み苦しんだであろう。ロシアのことわざに、心の中に猫がいるというのを引いて、彼女は自分の煩もんを形容している。
 しかし最後に彼女が自分の本当の道を見いだした時には、それらの過ぎ去った苦悶(くもん)はすべて夢のごとく消え去った。

 芸術! 若し私が魅力あるこの言葉を私の目の前の遠い所にでも持っていなかったならば、私は死んでいたに相違ない。

 彼女がそういって述懐したのは17歳の夏であった。普通の女が生涯を費やしても脱却し得ない苦悩を彼女は16歳で卒業して、17の春からはずっと高い世界に飛躍して、そこに安住の仕事を求めた。もはやこれまでのような、おちゃっぴいの、高慢な、多少俗気のある小娘ではなく、今や良い判断をもって高い道にたどりついた真実の一芸術家であった。彼女の第3の愛はこの境地に達して後に静かにわいた。肺を侵された彼女の体は死にかけていた。その時彼女の心がすがりついたのはバスティアン・ルパージュ(底本:「バスチアン・ルパアジュ」Jules Bastien-Lepage)の魂であった。彼は当時パリにおいて最も名声の高い画家の1人で、彼自身もまた死に近づきつつあった。マリは24で、バスティアン・ルパージュは36であった。前者は「出あい」を描き、後者は「ジャンヌ・ダルク」を描いた。二人は病み衰えて互いに死ぬ前に知り合い、聖者のごとく愛し合い、そうして同じ年の同じ冬の日に二月の日にちを隔ててこの世を去った。
 読者はここまで彼女の日記をたどって見ると、初めのニースにおける、またローマにおける火花のような彼女の情熱のほとばしりはやはり真実の愛ではなかったことに気づくであろう。それは探すものを探し当てない焦りの閃光(せんこう)に過ぎなかった。しかし探すものを探し当てた瞬間に彼女はその手を放さねばならなかった。──およそこの位までロマンチックなことがまたとあるだろうか! 彼女の生涯の努力が最後の絶頂に達した時に、彼女のために幕は落ちてしまったのである。
 彼女の日記を読む人は、初めは誰でも小さい妹の才はじけた追想記でも読むような気持ちで、時としては彼女の時間を惜しむ恐るべき熱心に動かされたりしながらも、その強い虚栄心と、自負心と、遊戯と、媚態(びたい)と、それらの告白に苦笑させられているが、いつしか引き入れられて、満腔(まんこう)の同情をもって傾聴しないではいられなくなるのを発見するであろう。これは告白の真実性の力である。彼女の日記は、彼女が自負しているごとく興味多きものであるが、その価値のほとんど全部は彼女が最後に高い清められた生活へ向かってまい進することによって最も強く保持されている。それあるがために私は人生記録の最上の1つとしてこれを紹介するのである。
大正15年11月
訳 者
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by bashkirtseff | 2004-10-03 22:08 | はしがき
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