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1876.03.08(Tue)(水曜日の誤り)

 私は乗馬服を着た。そうして4時にポルト・デル・ポポロへ行くと、そこにはカルディナリノが2頭の馬と共に私を待っていた。母様とヂナは馬車で付いてきた。
 ──この道を曲がりましょう。私の騎士(カヴァリエ)が言った。
 ──曲がりましょう。それで私たちは野原のようなところへ入った。──それは La Farnesina (ラ ファルネシナ)と呼ぶ緑色した愉快な場所である。彼はこう言って、再び彼の告白を始めた。
 ──僕は絶望しているのですよ!
 ──絶望って何ですの?
 ──自分に得られないものを得たいと思うときが絶望です。
 ──あなたは月が欲しいとお思いになるの?
 ──いいえ、太陽です。
 ──太陽はどこにあるのでしょう? 私は地平線を眺めながら言った。もう沈んでしまいましたわ。
 ──いいえ、そこにいて、僕を照らしています。あなたが太陽です。
 ──いやだ! いやだ!
 ──僕はまだ愛したことはないのです。僕は女は嫌いです。僕は浮気な女たちと遊んだことはありますがね。
 ──だって、あなたは私を見るとすぐと愛してかかったじゃありませんか?
 ──そうです。芝居で初めてお会いして、一目見るとね。
 ──でも、それはもう済んだとおっしゃったじゃありませんか?
 ──あれは冗談です。
 ──どれが冗談で、どれが本気だと言うことが、私にどうして分かりましょう?
 ──でも、お分かりにならないはずはないでしょう!
 ──そうね。本当のことを言ってるときはいつだって大概分かりますわ。だけども、あなたのおっしゃることには信用がおけないのですもの。ことに愛に関するあなたの美しいお考えには。
 ──僕の考えと言うのは何だろう? 僕はあなたを愛しています。それにあなたは僕を信用して下さらない。ああ! 彼はそう言って、唇をかんでわきを向いた。して見ると僕は何者でもなく、何事も出来ない人間なのですね。
 ──まあ、偽善者にでもなっていらっしゃい。私は笑いながら言った。
 ──偽善者! 彼は叫んだ、怒って、私の方を向いて。いつでも偽善者、それがあなたの僕についての考えでいらっしゃることなのですね。
 ──まだほかにもありますわ。まあ落ち着いてお聞きなさい。今あなたのお友達が誰か通りかかったとすると、あなたはその方を見て目配せしてお笑いになるでしょう?
 ──僕が偽善者ですって! おお! 仮にそうだとすれば……まあいいです! ……
 ──あなたはあんまり馬をいじめていらっしゃるそうね。さ、降りましょうよ。
 ──あなたは僕が愛していると言うことを信じて下さらないのですね? 彼は言った。また私の目を見ようとしながら、私の方へ真剣な表情でのぞき込みながら、それで私は心臓が鼓動しだした。
 ──そうじゃないのよ。私は口ごもりしながら答えた。あなたの馬をお止めなさいな。もう降りましょうよ。
 彼の優しみのある言葉の中には馬術の訓戒も交じっていた。
 ──誰だってあなたを称賛しないでいられましょう? 彼は私より2、3歩後に下がり私を眺めながらそう言った。あなたはきれいですが、彼は言葉を続けた、でも、あなたには人情がないように思われます。
 ──違います。私は立派な人情を持っているのです。
 ──あなたは立派な人情を持っていらして、それで愛する気にならないのでしょうか!
 それは場合によりますわ。
 ──それじゃずいぶんわがままじゃないでしょうか?
 ──わがままだっていいじゃありませんか? 私は無知ではないし、善良なのですが、ただ感情が熱しすぎるのです。
 私たちはその間小山を下りていたが、坂が急だったのでゆっくり歩ませた。馬は絶えず道の凹凸や草の株などに妨げられた。
 ──僕は悪い性格を持っているのです。僕は気が激しくって、熱しやすくって、怒りっぽい。なるたけよくするつもりです。……この溝が飛び越せますか?
 ──いいえ。
 そう言って私は小さい橋を渡った。彼はその溝を飛び越した。
 ──これから馬車のところまで少し早足で行きましょう。彼は言った。もう下りはなくなったのですから。
 私は早足で出掛けた。けれども私たちが馬車から数歩手前まで来ると、私の馬は急に駆け足になった。私は右へ曲がった。A…が後から付いてきた。私の馬はますます速くなった。私はそれを引き留めようとしたけれども、馬は言うことを聞かないで駆けた。平原が私たちの前に広がった。私は運ばれて行った。いくら努力してもその努力は役に立たず、髪は振り乱れ、帽子は地上に落ち、力は緩み、ただ驚き、恐れるのみであった。後ろの方でA…の声が聞こえた。私は馬車の中の心配を感じていた。大地に飛び降りたいと思っていたけれども、馬は矢のごとく進んだ。何という愚かなことだろう、こんな風にして死んでしまったら、と私は思った。私にはもう力が残されていなかった。誰かに助けてもらわねばならなかった!
 ──控えなさいよ。A…は叫んだ。彼は私に追いつけなかった。
 ──出来ないのです。私は低い声で言った。
 私の腕は震えていた。もう一瞬間もすれば私は気絶しそうになっていた。そのとき、彼は追いついてむちでもって横殴りに馬の頭を打った。それで私は彼の腕につかまって、体が彼に触れるほどにして落ちないようにした。
 私は彼を眺めた。彼は真っ青であった。私はこれほどまでに心の転倒している人を見たことはなかった。
 ──やあ! 彼は叫んだ。何てびっくりさせたんでしょう!
 ──おお! そうね、あなたがいて下さらなかったら、私は落ちていたのですわ。もう控えが利かなかったのですもの。でも、もう済んでしまった。……まあよかったわ。それから私は吹き出しそうにしながら、こう付け加えた。私の帽子は誰が取って下さるのでしょう!
 ヂナが降りてきた。私たちは馬車のところへ行った。母様は気が狂ったようになっていたが、何にも言わなかった。彼女は、言えばどう言うことを言わなければならないかを知っていた。そうして私を困らせたくなかったのである。
 ──門まで、散歩しながら、ゆっくり行きましょう。
 ──それがいいわ。
 ──しかし、びっくりしましたね! そうしてあなたは、あなたもびっくりしたでしょう?
 ──いいえちっともよ。
 ──そうだ! 僕にもそう見えました。
 ──何でもないんですもの。まったく何でもありはしないわ。
 そうして1分間の後には私たちは aimer (エイメ(愛する))という動詞をすべての時法(テンス)において活用し始めていた。彼は私をオペラで見た最初の晩からのことを、何もかも話した。その晩彼はロシが私たちの桟敷から出て行くのを見て、彼に会うために自分の席を離れたのであった。
 ──ねえ、僕は誰をも愛したことはありません。彼は言った。僕の愛情はことごとく僕の母だけにあったのです。……僕は芝居へ行っても誰をも眺めませんし、ピンチオへは行ったこともなかったのです。そんなところへ行くのはばかですよ。僕は行く人を笑ったものです。それに今では僕が行くのです。
 ──私のために?
 ──あなたのために。僕には義務があるのです。
 ──義務が?
 ──ええ、道徳的にですよ。もちろん僕が小説にあるような告白をしたとすれば、あなたの想像力に感銘を与えることが出来たと思います。けれどもそれはくだらないことです。僕はただあなたのことを考えているだけです。僕はただあなたのために生きているだけです。言うまでもなく人間は物質的な生物で、大勢の人間に出会うと、大勢の人間の思想が先入してしまいます。人間は食ったり話したり、ほかのことを考えたりします。しかし僕は夜になると、よくあなたのことばかり考えています。
 ──クラブでね、きっと?
 ──そうです、クラブです。夜が更けると僕はいつまでも居残って夢を見ています。タバコを吹かしてはあなたのことを考えています。ことに夕暮れ一人でいると僕は考えて夢見てばかりています。その幻影はちょうどあなたがそこにいらっしゃるようにはっきりしています。けれども僕はこれまではそんな風に感じたことはなかったのです。僕はあなたのことを思い出すと、すぐあなたに会いに出掛けます。何よりの証拠は、あなたがオペラにいらっしゃらなくなると、僕も行かないので分かるでしょう。僕が夢見るのは大概一人きりでいるときです。そのときはあなたもそこにいるような気持ちになるのです。全くのところ、僕はこれまで一度だって今感じているようなことを感じたことはなかったのです。それによって考えてみても、これは恋愛に相違ないと思われるのです。僕はあなたに会いたくなるとピンチオへ出掛けるのです。僕はあなたに会いたくなると、気違いみたいになって、一人であなたのことばかり考えています。これが僕の恋愛の楽しみを覚えた最初です。
 ──あなたはお幾つですの?
 ──23です。僕は17のときから生活を始めたのです。僕は百度も恋愛をするところだったのです。けれども一度もしなかった。僕は世間の18位の男みたいに花とか写真とかで大騒ぎをしたことはありません。それはくだらないことですからね。僕は時々言いたいことがたくさんあるけれども……
 ──けれども言えないとおっしゃるのでしょう?
 ──いや、そうじゃありません。僕は恋をしたためにばかになったのです。
 ──そうお考えになっちゃいけませんわ。あなたはちっともばかじゃありませんもの。
 ──あなたは僕を愛していらっしゃらないのです。そう言って彼は向こうを向いた。
 ──私はあなたのことは何も分かっていないのですもの。ですからお話しすることは出来ませんわ。と私は答えた。
 ──でも僕のことをもっとよく分かって下さったら、彼はいかにも憶病らしい様子で静かに私の方を見て言って、(それから声を低めて)多分少しは僕を愛して下さるかも知れませんね?
 ──多分ね。私は柔らかに言った。
 私たちが着いたときはもうほとんど夜になっていた。私は馬車に入った。彼は母様のところへ行って数多く言い訳をした。母様はこの次の馬のことについて彼に2、3の注意を与えて、そうして私たちは別れた。
 ──それではさようなら! とA…が母様に言った。
 私は黙って彼に手を与えた。彼は形式的でなしに握り締めた。
 ──私よくわかっててよ! ヂナが叫んだ。あの人がマリに何か言って、マリがそれに答えると、あの人が駆け出したのです。それであんなことになったのだわ。
 ──そうなのよ。あの人は本当にいろんなことを言ったわ。
 ──うまくいって? ヂナが聞いた。
 ──いってるわよ! 私は満足そうに言った。
 私は部屋に入って、着物を脱いで、普段着に着替えて、長いす(カナペ)の上に横になる。疲れて、夢見心地で、思い惑いながら、私は初めのうちは何にもはっきりと分からなかった。2時間の間は何もかも忘れていた。今あなたがお読みになっていることを思い出すのに2時間かかったのである。もし私がすっかり彼を信じることが出来たならば、私の喜びは完成されたかも知れない。けれども私は、彼の率直と愛嬌(あいきょう)と無邪気な顔つきにもかかわらず、疑惑を持っている。これは人間が本来 canaille(賤民)であるところから来たものであろう。かつまたそれは尚と良いことである。
 私は寝台の上に横になるために、私の哀れな頭の中で何度もそのことを考え直しては、夢見たり笑ったりするために、十度以上もこの日記帳を投げ出した。
 皆さん、見て下さい、私はまったく心が転倒しています。そうしてあの人は今頃きっとクラブに行っていると思います。
 私は本当にいつもと違って、本当にばかになっている。私は気は落ち着いているけれども、あの人の言った言葉で悩まされている。私はまたあの人が自分で野心家だと言った言葉を思い出す。
 ──誰でも生まれの良い人はそうあるはずです、と私は答えた。
 私はあの人が私に話した話しぶりを好ましく思う。修辞法もなければ、虚飾もなく、ただ声に出して考えているようにしか見えない。あの人は私に対していろんなかわいいことを言った。例えば、
 ──あなたはいつもかわいい顔をしていらっしゃる。どうしてそんなにしていらっしゃれるのか僕にはわからない。
 ──私はいつも髪をこわしていますわ。
 ──尚といいじゃありませんか。あなたは髪がこわれているほどきれいですし、それだけまた……(そこで言葉をとぎらして、微笑しながら、)それだけまた……何と言って良いか分からないが……それだけまた人を引き付けるのです。
 私は今彼が「僕はあなたを愛します」と言って、私が「そんなことはうそです」と答えたときのことを思い出している。彼はくらの上で体を揺すぶって、手綱をその手から取り落として前こごみになりながら、あなたは僕を信じて下さらないのです! と、私の目を捕らえようとしながら、そう言った。私は自分の目を伏せた。(それは媚態(びたい)からではないことを誓っておく。)おお! そのとき、あの人は真実を言ってしまったのだ。私は首を上げて、あの人の思い煩っている顔を見た。広く開いた暗褐色の目を。その目は私の心の底まで読み破ろうとしていたが、私が目をそらしたので、惑わされ、いら立たされていた。私はわざとそうしたのではなかった。もし私があの人の顔を見なかったならば私は泣きだしたかも知れなかった。私は興奮して混乱して、どうして良いかわからなかった。あの人には私が媚態を演じているのだと思われたかも知れない。そうだわ、少なくともその瞬間だけは、あの人の言ったことがうそでないのを私は知った。
 ──あなたは今は私を愛していらっしゃるでしょう。私が答えた。けれども1週間もたったらば愛して下さらなくなるでしょう。
 ──おお! 後生です。僕は若い婦人たちにからかって一生を終わるような人間じゃありません。僕はこれまで誰にも愛を求めたこともなければ、誰をも愛したこともないのです。ただ一人の女があって、その人が一生懸命で僕に愛を引き寄せているのです。その人は僕にこれまで6、7度も落ち合う場所を教えてくれたけれども、僕はいつも機会を取り逃がしたのです。それは、あなたにもおわかりでしょうが、僕はその人を愛することが出来ないからです。
 でもこのくらいにしておこう。私が記憶をことごとく呼び起こしてそれを書き留めてしまっても完成するときはないであろう。そのくらいたくさんなことが言われたのである!
 さあ、さあ、あなたもおやすみなさい。
by bashkirtseff | 2005-02-13 21:06 | 1876(17歳)
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