私は古い思いつきに帰る。そうしてそれは、私が公衆用腰掛けにかけている善良な人たちを見るたびに私の心を捕らえてしまう。これは1つの大きな習作になり得るかも知れない。いずれにしても人物が動かないような場面を描くよりも良いに決まっている。言うまでもなく私は運動に反対する者ではない。けれども乱暴な場面では、洗練された公衆に対する幻影や享楽は持ち得ないのである。人は、打つために上げられて打たないでいる手により、走っていながら1つ場所にとどまっている足により、ようやくに(それとも意識しないで)印象を受けるのである。また非常に動いている姿勢でありながら、それが不動の瞬間とみられるような場合もある。芸術としてはそれでたくさんである。
いずれにしても大きな激しい運動に続く瞬間を捕らえた方が、それに先立つ瞬間を捕らえるよりも良い。バスティアン・ルパージュのジャンヌ・ダルクは声を聞いた。彼女は、その糸繰り車をひっくり返して、慌てて飛び出した。そうしてたちまち1つの樹木を背にして立ち止まった。しかし人々が動き回って、手をあげている様々な場面を想像してみるが良い。それは多分非常に力強いものではあろう。けれどもそこには決して完全な享楽はない。 皇帝によって軍旗が授与される、それはヴェルサイユにおいてである。 皆急いで寄せ集まる。両手を高く差し上げて。だが、これなら非常に良い。なぜと言うに、それらの手は待っていたのである。だからそれらの人々の感激によってこっちも自ら胸が迫ったり、感動させられたり、夢中になったりする。見る人の方でも彼らとその焦る思いを共にするのである。心のはやりも運動も、まさしく、非常なものである。なぜと言うに、私たちは停止の一瞬間をば自ら思い描いてみることが出来て、その間に1つの絵ではなく、1つの真実なものとして、この情景を落ち着いて眺めることが出来るからである。 しかし何ものと言えども、彫刻にせよ、絵画にせよ、休息している状態にある主題の偉大さに比べ得られるものはない。 凡庸な人間でも動乱している絵はかなり良く描きこなすことが出来る。しかし休息している主題だったら何一つとしてちょうどのものをば決して描けないであろう。 ミレーの絵を見るが良い。そうしてそれをあらゆる想像的な乱暴の絵と比較してみよ。 ミケエル・アンジュ(ミケランジェロ)の「モーゼ」を見よ。モーゼは不動である。しかし彼は生きている。彼の「考える男(パンスウル)」は身動きもしない。口もきかない。しかしそれは彼がそうすることを欲しないからである。それは生ける1人の男であって、自分の様々な思索に心を傾け尽くしている。 バスティアン・ルパージュの「パ・メエシュ」はあなたを見つめて、あなたの物言うのを傾聴している。しかし彼は語ろうとしているのである、彼は生きているから。彼の「乾草(フォアン)」では、男が仰臥して、顔を帽子で隠して、眠っている。しかし彼は生きている。座り込んで夢見ている方の女は動かない。しかし彼女の生きていることは感じられる。 休息している主題のみが完全に享楽を与えうる。それはその中に吸い込まれ、その中に分け入り、それが生きていることを見るの余裕を持っているからである。 愚か者や無知な人たちはその方がより多く描きやすいと考える。ああ! 嫌になる! もし私が必ず死ぬものとすれば、それはフロオベエルが無際限と言った人間の愚劣に対する憤りからであるだろう。 最近30年間にロシアでは驚嘆すべき様々のものが書かれた。 伯爵トルストイの「平和と戦争」〔戦争と平和〕を読んで、私はこう叫びだしたほど感に打たれた。──まるでゾラにそっくりだ! 実は今日「ルヴィウ・デ・ドゥ・モンド」に、私たちのトルストイに対する1つの研究論文が捧げられてある。それで、私のロシアの心がうれしさに躍り上がっている。この論文はムッシュ・ドゥ・ヴォギュエの書いたもので、彼は大使館書記官としてロシアに赴任していて、ロシアの文学と風俗を研究して、私たちの偉大にして驚嘆すべき祖国に関する著しく正鵠を得たる深奥なる数編の論文をすでに発表した人である。 そう言うあなたはかわいそうに! あなたはフランスで暮らしている。祖国にとどまるよりも1人の外国婦人であることの方を余計愛している! あなたは、あなたの美しい偉大な崇高なロシアを愛しているのなら、ロシアへ行ってロシアのために働きなさい。 私とてもやはり自分の国の光栄のために労作します。……もしも私にトルストイほどの大才があるならば! しかしもし私は自分に絵という仕事がなかったら、私は行ったであろう! 誓って言う、私は行ったであろう! しかし私の仕事は私の能力を吸い尽くしてしまった。そうしてその外のすべての事柄は暇つぶしであり、慰みである。
by bashkirtseff
| 2012-05-19 16:24
| 1884(25歳)
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