1875年、1876年及び1877年の日記を再読せよ。私はそこで自分では何とも知られない事柄について自ら嘆いている。それは何かある無限のものに向かっての向上心であった。私は毎晩傷つき力尽き、勇気がなくなって、凶暴と絶望をもって、何をしたらよいかを探し求めるために自分を使い果たしていた。イタリアへ行く? パリにとどまる? 結婚する? 絵を描く? 何になる? イタリアへ行けばパリにいられない。私は同時にどこにもいたかった!! そこにはなんと力があったことだろう!!! 男なら、私はヨーロッパを征服してしまったかも知れない。若い娘であった私は、過度の語学や、偏狭なばかばかしさで自らを消耗してしまった。みじめだ!
人は無邪気にも何事でも成し得ると自ら信じるようなときがあるものである。「もし私に時があったら、私は彫刻をしたい、著作をしたい、音楽者になりたい!」 これは人をむさぼり食う火である。そうして死が終局である、避けがたい終局である。──私がむなしき希望によって自らをすり減らしてしまうと否とにかかわらず。 しかしもし私が何でもない人間なら、もし私が何でもないものになるに決まっているのなら、私が物事を考えるようになって以来のこうした様々の功名の夢はなにゆえか? 私が最初には富や爵位のごときものとして思い描いていた偉大を欲するこの狂せんばかりの野心はなにゆえか? 私が一つは他の引き続きとして起こるような2つの考えを持つようになったときから、すなわち4つの年から、光栄な、偉大なる、混沌としているが、しかし広大無辺な事柄を危惧していたのはなにゆえか? 私は子供らしい頭の中に何もかも持っていた! ……まず第一に私は踊り子であった、ペテルブルグ中が崇拝されていた有名な踊り子であった。毎晩私はロオブ・デコルテを着せられて、頭に花を飾って、客間で、家の人たちの皆見ている前ですこぶる荘重に踊った。次いで、私は世界一の歌手だった。私は歌いながら竪琴を奏でた。そうして私は、凱歌のうちに運び去られた。どこへか、誰からかも私は知らない。次いで私は弁舌をもって群衆を電気をかけたように感動させた。ロシアの皇帝は王位を安泰ならしめるため私と結婚した。私は私の人民と親しく混じって暮らした。私は演説をして、私の政策を説明した。王者も人民も涙をたたえて感激した。 それから私は愛した。愛された男は私を裏切った。もし彼が私を裏切らなかったとすれば、私がもうそれほど彼を愛していないように感じ出したちょうどその瞬間に、何かしら災難が起こって、例えば落馬とか何とかいったようなことで死んでしまうのである。それで今度は、他の1人の男を愛しだした。しかしそれがすべていつも非常にうまく、非常に道徳的に運ぶのであった。なぜと言うに、彼らは死ぬか、出なかったら私を裏切ったから。私は死んだ男たちのことは自ら慰めた。しかし裏切られた場合は、それは嫌悪であり、限りなき絶望であり、そうして私の死であった。 要するに、あらゆる方面において、あらゆる情操と、あらゆる人間的な満足とをもって、私は実際よりも大きな夢を見た。もしそれが実現されないものならば、死んだ方がましである。 どうして私の絵は賞牌を得なかったのか? 賞牌! ……それは私が助力を受けて描いたものと彼らは(彼らの間の多くのものは)考えたに違いない。自分の絵を人に描いてもらった女たちに賞牌を授与したようなこともすでにあった。そうしていったん賞牌が授与されたとなると、次の年は権利として入選する。だから最も恐るべき殴り描きの絵でも送ることが出来る。 そうして私はと言うに、若くて、美しくて、そうして諸新聞に書き立てられている! あの人たちも皆同じだ。……例えばブレスロオもそうである。彼女は私のモデルに向かって、もし私がもう少し舞踏会などへ行かないようにしたら、私はずっと余計才能を示し得たかも知れないと言った。ああした手合いは皆私が、毎晩社交界へでも出入しているものと思い込んでいる。いかに外容は人を欺きやすいものであるだろう! ただ絵を私の描いたものでないように想像する。これはあまりにひどい。そんなことを言った者は天の怒りに触れよ! トニー・ロベール・フルリは、結果が意想外であったと私に言った。なぜと言うに、彼が私のことを審査委員会の同僚に語るたびに、誰も彼もこう答えるのであった。──非常に良い。非常にうまく行ってる。 ──そう言われたときにどう考えたら良いとお思いです? ロベール・フルリは尋ねる。 それでこれが疑問となる。……
by bashkirtseff
| 2012-05-19 13:28
| 1884(25歳)
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