1884.04.04(Fri)

 バスティアン・ルパージュの展覧会は光っている、言うまでもなく。しかしそのほとんど全部は創作である。1、マダム・ドルウエの肖像は昨年の作。2、今一つの肖像は1882年の作。3、2人の洗濯女と花の咲いたリンゴの木のある風景は、同じく1882年の作。4、ローマ賞を得たの(彼はローマ賞の2等しか得なかった)は1879年の作。及び昨夏コンカルノオへ行っていたときに描いた素描、それが5。「ダンヴィレエルの沼」6。「小麦あるいは刈り取り人夫ら」。背中を向けている一人の小さな麦刈しか見られない絵。(7)
 ある森の中を木を運んでいる老いたる1人の乞食、それが8である。ダンヴィレエルの沼と、麦刈と乞食とは、いっぱいに太陽を浴びている。そうして、もし私が誰かにこれだけの価値のある大勢の風景画を示されたら、私はかなりびっくりさせられるであろう。偉大なる芸術家は、専門とか特技とかいうものは持ち得ない。
 バスティアン・ルパージュのところで私が見たアンドロメエドは、小さいものではあるけれども、何人といえどもこうは描き得ないと思われるようなひとつの裸体習作である。明確さ、性格、形の気高さ、動作の優美さ、色調の細やかさ、そのすべてがその中にあった。そうして大きくもあれば同時に純化してもいる扱い方である。要するに、自然のごとく、肉と皮膚とを備えている、実際に! 彼は薄暮の効果を出そうと欲したとき、「村の宵」を描いた。それは純粋のひとつの傑作である。こうした詩的な注記をミレーに加えたのでは、おそらく過ぎたかもしれない。……よく分からせるために、私はミレーにと言う。なぜと言うに、バスティアンはバスティアン自身であって、またもしミレーが様々な夕暮れや月やらを描いたとしても、他の者に取ってはやっぱりそこに描くべきものが残っているのである。神に謝す。
 この「村の宵」は魔術的効果を持っている。どうして私はあれを買い取らなかったのだろう?
 そこには本当に水の流れているのを見るような思いのするタミイズ(テムズ川)とともに、彼はロンドンの景色も描いていた。いわば旋回して流れている、あの厚ぼったい、重々しい水の流れを。要するに、彼の小さな肖像画は最も美しく、いにしえの諸大家の小さな肖像画と同じくらいに美しい。また実物大の彼の母親の肖像は、ここまで行ったら肖像画とは言えないほどな出来映えである。なぜと言うに、それは遠くから見ても、近くから見ても、実物そのものである。これを要するに「ジャンヌ・ダルク」は天才の霊感である。
 彼は35歳である。ラファエルは、より以上のものを描いて、37歳で死んだ。しかしラファエロは、12の時から、彼をば大ペルジーノのところで勉強させた公爵夫人たちや大僧正たちの膝の上で育てられたのである。そうして、15になったラファエロは、師匠のものを模写して実物と紛うばかりだった。そうして15からは、大芸術家として神聖視されていた。ついで、その現れた年代からいって、またもちろんもろもろの長所の故に私たちを驚嘆せしめているあの様々の大画面、それらの中にはその大部分の仕事が彼の弟子たちによって仕上げられたり、また、それらの中の数個のものは、ラファエロが下絵を描いたというに過ぎないようなものもある。
 さてバスティアン・ルパージュの方は、その当初は、パリで自活するため、午前の3時から7時まで、郵便局で手紙の選り分けをしていた。彼が初めて展覧会に出品したのは、1868年だと思う。
 要するに、彼には公爵夫人も、大僧正も、ペルジーノもなかった。しかしすでに村にいた頃、彼は図案ではあらゆる賞品を得ていた。私は彼がパリへ来たのはわずかに15か17の頃であると信じている。
 それでも彼は私よりもましである。そういう私は常に芸術的でない環境のうちに生活し、幼時から若干の教科目を課せられ、ついで3、4年の期間というものは、各1時間ずつの15科目の学課を課せられ、それからやっぱり依然としてこの環境の中にいるのである。……それが6年と幾カ月かにもなっている。しかしその間には幾度かの旅行と、1度の大病をしている。要するに……それで私はどこにいるのであろう?
 私はバスティアンの1874年ぐらいのところにいるのではあるまいか? この質問は正気の沙汰ではない。
 もしも私が、バスティアンについて今ここで書いているようなことを、社交界の人たちの前で、または芸術家たちの前で言ったなら、人々は私を全くの気違いだと言うかも知れない。──前者は確信をもって後者は主義の上から、そうして若い者の優越さを認容しないために。
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by bashkirtseff | 2011-03-22 20:22 | 1884(25歳)
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