1883.06.15(Fri)

 カンロペエル夫妻から私に一通のうれしい手紙が届いた。皆が私に非常な同情を寄せていてくれる。
 今朝、誰にも会いたくないと思いながら、冒険にもサアル・プチ〔小展覧会〕に行ってみる。何かの補助のため100点ばかりの傑作を陳列してある。──ドカン、ドラクロワ、フォルチュニ、レンブラント、ルソー、ミレー、唯一の現存者なるメエソニエ及びその他。まず第1に私はメエソニエに言い訳をする。と言うのは、私は彼を良く知っていなかったし、また彼は、最近の肖像画展覧会では拙劣なものしか見せていなかったから。そうだ、今度のこそは文字通り驚異である。
 しかし私が喪のベールを払いのけても見たいと思ったのはミレーであった。彼に全然面識はないけれども、彼の名声は私の耳にとどろいていた。──バスティアンは彼の薄弱な模倣者だと言われていた。──それが私をいら立たせた。私は見てきた。また見に行こう。……バスティアンはなるほど彼の模倣者ではある。なぜならば、彼は百姓を描いているから。また、なぜならば、両者共に大芸術家であるから。そうしてすべて真個の傑作は、ある同一系統らしい似寄りな点を持っているものであるから。
 カザンの風景の方がバスティアンのそれよりもずっとミレーに歩み寄っている。ミレーにあっては、私がここで見た6点について言うと、その美しさは、全体にわたったものであり、諧調であり、空気であり、流動性である。すなわちそれは概略の上から見た小さい形であるが、非常に大きくて、非常に正確である。そうしてバスティアンに今日比類なき力を授けているものは、すなわち彼の人間味を帯びた人物の、力強い、生き生きした、異常な、細心な描写である。自然の完全な模倣である。要するに人生である。彼の「村の宵」は小さな感じのするものに過ぎないけれど、確かにミレーに匹敵する。そこには薄暮の中に姿を没している2人の小さい人物が描いてあるきりである。しかし彼の「村の恋」の思い出は私の目を痛ましめた。あの背景は何という間違いだろう! どうしてそんなことが彼に分からなかったのだろうか? そうだ、こうした大物になると小さい絵でミレーを以上ならしめているところものが彼に欠けているのである。……空気、諧調。……たとい何と言っても、人物が支配しなければ駄目である!
「親爺ジャック」は効果から言って「村の恋」に勝る。「乾草」も同様。「親爺ジャック」は詩にあふれていた。花を摘む小娘はうっとりさせるような人物で、老人も良かった。……大きな絵に、この……ミレーの特質をなしているところの、実に柔らかく実に確かなこの包む力を与えることのずっと難しいのは私も良く知っている。……しかしそこまで達しなければならぬ。小さい絵にあっては、大概のものはごまかすことが出来る。私は小さい絵について言っているので、そこでは例えばミレーの息子とも言うべきカザンのごとく(と言っても細心なメエソニエは当たらない)表情が全体を支配している。誰でも少しばかりはけをうまく動かすと、ある一点においてはっきりとは分からないが、全体に行き渡っていて、言うに言われないある力、それを私たちは魅力と呼んでいるが、そういった表情が出て来ることがある。……しかるに大きな絵では、一切そうした状態が変わってしまって……恐ろしく困難になる。なぜと言うに、その場合には感覚が科学の力を借りなければならぬからである。それはしばしば恋愛や金銭の場合に生じるがごとくである。……
[PR]
by bashkirtseff | 2010-07-30 08:14 | 1883(24歳)
<< 1883.06.16(Sat) 1883.06.13(Wed) >>