1883.05.01(Tue)

 さてサロンは? 実際、それはいつもより悪い。
 ダニャンは出していない。サアゼントは平凡である。ゼルヴェスは普通である。アンネエは見事である。それは読書している1人の裸体の女である。技巧的な光線、そうして全体が一種の霧のようなものに包まれて、自分もその大きな魔法のような霧に包まれているかのごとく感じるような見事な調子である。ジュール・バスティアンは非常にそれを褒める。カザンの絵は私は彼の感情の出た風景ほどには好まない。それはジュヂトがオロフェルヌへ行くために町を出るところである。私は「それから出る魅力」を感じるほどに良く見なかった。けれどもその絵が人を感じさせるのはジュヂトのいることがオロフェルヌの恍惚としていることを助けていないということである。

 バスティアン・ルパージュの絵は私の心を完全に奪い去りはしない。2つの人物は近づくべからざるものではある。後ろから見た娘、ほほだけが見えるその首、花をいじっているその手、すべてが詩と、感情と極度まで実行された観察を示している。
 その背中は1つの詩である。わずかに見える手は1つの傑作である。誰でも自分の表現したかったものを感じる。その小さい女は首を少しうなだれて、その足をどうしたらばよいか分からないでいる。その足はかわいらしい当惑の形を取っている。若い男もすぐれているが、娘の方は美と若さと詩そのものである。それは真実で、正確で、そうして深く感じられた絵である。それは精細で、きゃしゃである。
 けれども風景は全く不愉快である。その場所があれほど青い必要はなかったということを別にしてもそれは前景と混同されないように仕上げられるべきはずであった。空気が欠けている。なぜだろう? 人は皆背景がのり付けされたように出来ているという。とにかくそれは重苦しい。
 それからブレスロオの絵は? ブレスロオは良く出来ているが、皆不満足を感じている。なぜと言うに、絵は良く出来ているけれども、それは何物をも語っていないから。きれいではあるが、調子が平凡である。人々が暖炉のそばでお茶を飲んでいる絵である。単なる中流社会の室内で、特長のない暗色の娘と、明色の娘と、そうして若い男。皆非常にまじめくさった顔つきをしている。家庭の感情が欠けている。それはもっとそばに寄り添って、もっと親しみが出ていなければならないと私には思える。それは何物をも表現していない。感情を語ることの多い彼女も、私にはこんな場所にふさわしいような才能があるようには思えない。……彼女の肖像は良く出来ている。けれどもそれだけのことである。
 それから私の絵は?
 さて、イルマの首は気持ちよく、素直さのある絵である。けれども気取りといったようなものが何にもない。
 そうして大きい方の絵は何だか陰気らしく思われた。それは外気で描いたのだけれども、少しもそうらしく見えない。壁が壁のように見えない。それは1つの空間である。塗られた1つの画布である。首は皆良く出来ている。けれども背景がぶち壊しである。けれども、もう少し良い場所にかける価値はある。ことにこんなシメエズで室内のものばかり並んでいるところにはふさわしくなる。誰でも首が良く出来ていることには、ことに1番年上の首がよいということには、一致している。おそらく私はその他の者もそれ以上に描くことは出来たであろう。なぜと言うに、それは比較的容易なことであるから。けれども私には時間がなかった。
 私の絵がそこに掛かっているのを見ると私は6カ月アトリエで仕事をする以上に得るところがあった。サロンは偉大なる教訓である。……私はしかしこれまでこれほど良く理解しなかった。
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by bashkirtseff | 2010-07-12 08:17 | 1883(24歳)
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