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1882.10.23(Mon)

 土曜日の朝の一同の驚き。公爵たちの言い訳! 電報で近所の領地へ呼ばれたから狩猟に行かれないと言うのである。私は着物を替えるのも非常に苦しかった! それは悪い牛乳を飲んで病気になって、黒いビロードを着るのにも大層骨が折れたほどであったから。しかしこれを着ると平凡に見える気遣いはない。父は青くなり、母は赤くなった。
 でも私は笑った、しかも心から。ついに私たちは出掛けた、悔し紛れに、腹立たしくなって。ミセルのところまでにしようということになって。ミセルは盛んな朝飯を支度して私たちを待っているはずであった。馬もそこで息を入れることになっていた。
 やがて、私たちはいくらか気も落ち着いて道を進んだ。──それでも帰りのことについて5分ごとにけんかをしながら。私たちは広い野原で止まった。父とポオルとミシカは降りた。議論は馬車の戸口まで続いた。母はミシカに対する口実として病気だと言いだした。
 ついに父が御者にもう私たちの言うことを聞くには及ばないと言ったので、私たちはまた出掛けた。半分笑いながら、半分気は進まないながら。言うまでもなく誰も私たちのつまらない計画を考え得る者はない。もしそうなったら私たちは喜ぶだろうとは誰にも見当は付かないだろう。誰も私が来ていようとは想像しているはずはない。ただその権利を知っている私たちのみが、泥棒かなんぞのごとく、それが私たちの顔に書いてありはしないかと恐れている。アレクサンドルは私たちが公爵たちと一緒に来るかと思っていた。彼は私たちとミシカだけが来ることを予想していたのならば、費用は惜しまないなどとは言わなかったであろう。ミシカとても多少の失望をば感じていたに相違ない。あなたにはこの2人の男がここの人たちの想像に対して何を表していたか、想像もつかないでしょう。アレクサンドルはカアルコフへ3人の料理人を連れに行ったのです。……
 しかし猟は見事であった。──オオカミが15匹とキツネが1匹捕れた。天気は良かった。私たちはうち開けた森の中で、400名以上の百姓と一緒に食事をした。百姓は私たちの鉄砲の方へ動物を追い立てた。……私たちの鉄砲、こう言うと少し大げさである。なぜと言うに、私は1匹も見なければ、1匹も撃たなかったから。オオカミは皆左の方へ行った。私は右の方にいた。父も、ミシカも、ガルニツキも皆右の方にいた。私は1匹のキツネを見た。けれども弾着距離のほかにあった。それから飲み物が百姓たちに分けられた。ああ! 私は私の成功した発射のことを書き忘れるところであった。
 1人の百姓が木の頂上に登った。私たちは火酒の瓶を1つ彼に投げた。彼はそれを一番高い枝にいわい付けた、もちろんそれを空にしてから。それで私たちは慰みにその瓶を打った。皆がそれを少しずつ壊した。──私までも。アレクサンドルは大喜びで私に千のお世辞を並べ立てた。ナヂイヌも。彼らの息子のエチアンヌは14のかわいい子どもで、陸軍幼年学校の優等生である。
 献立と酒については何人もこれ以上のものは望めなかった。景色も非常に良く、家も良く整頓して。私は今初めて祖父(ババニイヌ)がどの程度まで芸術的で聡明で卓越していたかを知ることが出来た。花園、荘園、池、並木、私はそれらの1つをも変えたくない。実に称賛に値する。今は秋でしかも10年も荒廃にいしていたにもかかわらず、偉大なる美観である。ガヴロンチもチェルニアコフカに比べればいとうべきものである。
 部屋も皆良く整って、家庭の感じを与えて、はなはだ愉快である! 百姓の女たちは美しく、誰を見ても皆絵のようである! あなたは覚えておいでだと思いますが、去年私はガヴロンチで何を見てもどうして良いか分からなかった。あるいはそれは私がまだ子どもだったからでしょう。……否、それはただ美しいからである。記憶というものは全く別なものになっている。
 それから玉突き台、以前からここにあった小さい玉突き台。……母は子どもの時からそれを覚えている。私はそれに届かなかったころのことを覚えている。私は大きな白い空の客間でピアノを弾いて、祖母が以前良く長い長い廊下の端の部屋の向かい側の隅で聞いていたことを思いだした。今生きていてもまだ65を越えてはいないだろう。
 私たちの食事をした部屋に祖母は3日間威儀を正して横たわっていた。他の人たちもそのときのことを思い出したかどうか私には分からない。けれども私は感動させられた。……人は何もかも忘れてしまう。祖母が生きていたらば私のことを誇りにしてくれたであろう。──そうして喜んでくれたであろう!
 ああ! 昔の人たちをよみがえらせることが出来たなら、どんな熱心をもって取り囲むであろう! 祖母は苦しみよりほかに何も持たない人であった。
 今夜は母の主催するような良い夜会の1つがある。ろうそくは皆ともされ、戸は皆開かれ、7つの大きな客間は人で一杯に満たされたように思われた。私たちの人数は16人以上ではなかったけれども。
 エチアンヌはピアノをかなり良く弾いた。それからワルツを。ミシカはスタロヴォイを肩に乗せて部屋の中を3度ワルツを踊り回った。
 狩りの世話をした警官たちも正餐に招待させた。
 花火が上がっている。その火で草ぶきの低い鶏小屋が火事になったのだからお祭り騒ぎは完全になったと言えよう。これは非常な安価で皆に感動を与えたようなものである。男女の召し使いたちは野ウサギのように駆け回っている。水おけと水おけとぶつかる。そうして大きな叫びが上がる。主人側にとっても客にとっても夜狩りである。火と木立とあって実に美しかった! 私たちは白い着物に繻子(しゅす)の上靴を履いたままで現場に駆け付けた。そんなものを着たり履いたりしていなかったから、私もミシカや父やポオルや警官たちのように火の中に入ったであろうに。
 父は静かに火の中にあった。父は鶏を皆助けてやった。かなりの危険さえも冒して。面白いばかりで、何らの心配もなかった。花火と災難の発頭人なるユダヤ人は一生懸命逃げ出して、約半時間の道のりにあるポオルのカッテエジで、ポオルと共に夜を過ごした。父は彼に明日の旅行の分として3ルーブル与えた。けれども彼は馬車の後にぶら下がって40ヴェルストの道を駆ける方を選んだ。私たちは半道来るまでその旅行者に気がつかなかった。
by bashkirtseff | 2010-05-30 20:07 | 1882(23歳)
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