1882.08.28(Mon)

 私は実際自分がほかの人であるような気持ちのすることがある。この妄想は、この歓喜は、自分のしていることに対するこの愛は、偉大な結果に終わるはずはないと思う。自然を見たり感じたりして、私のように作り上げて、そうして偉大な結果に到達することは不可能だと思う。……
 私は2番目の絵を描いてみた。それからマダム・T…が私の仕事をしているときに訪ねてきて、隅で読書していたから、私は彼女の粗い写生をした。決して整頓をしてはならない。整頓は真実に及ぶものではない。高い芸術は切実な瞬間を捕らえて、見た通りを描くことである。……
 しかしながら次の真理をあなたは深く肝に銘じて下さい。自然を正確に写すためには、天才が必要である。普通の芸術家は自然を parodier する(もじる)以上のことは決して出来ない。
 利口な画工が写すために写すと平凡な作品が出来る。それを俗人たちは写実的だと呼ぶ。それは諧謔(かいぎゃく)の材料にしても差し支えのないことがしばしばある。
 何人にかかわらず自分の見る通りにその人を描くことは問題ではない。捕らえられた動作と姿勢はほとんど保持されることはない。姿勢には堅いところが出来る。けれども心意は感動を受けて、その事物を見た瞬間の印象を保持しなければならぬ。あなたが芸術家と認めるのは、そういった場合である。
 私はウィーダ(本名はルイーズ・ド・ラ・ラメー、1840(#1839)に生まれた小説家、ロンドンとフィレンツェで暮らした/底本:「オウィダ」)の書物をまた読み返してみた。中庸の才能の婦人で、その書は「アリアアヌ」(アリアドネ)と題して英語で書かれてある。
 それは最高度の通俗的な小説である。私は最近3、4年間にこの小説を読み返してみようと思ったことが20度もあった。そうしていつもやめにした。それは私に感動を与えることを知っていたからである。この小説は芸術と愛を取り扱って、場面はローマに置かれてある。3つのものが結合している。そのうちの1つだけでも私を感激させるに十分である。愛はそのうちでも最小である。愛はこの小説から取り去っても差し支えない。それでもまだ私を喜ばせるものが十分に残るであろう。
 私はローマに対して崇拝と尊敬と熱情を持っている。ローマはすべてのもの以上である。美術家のローマ、詩人のローマとして、真のローマは世俗的のローマのため少しも煩わされるところはない。私はただ詩的な美術的なローマのみを記憶している。それが私をひざまずかせる。
 彫刻はその本の中に取り扱われた芸術である。私はいつもそれを始めたいと思っている。昨夜も眠れなかった。
 おお、神聖な芸術の力! おお、他のすべてのものに値する神聖な並ぶものなき感情! おお、地上に高く秀づる無上の享楽! 私は今重たい胸と涙にぬれた目をして、神の前に身を投げ出して、その助けを求めている。
 何だか気違いになりそうだ。1度に10のことがしたくなる。私は何だか重大なことをしているような気持ちがする。そう信じている。実際に信じている。私の魂は未知の高さに駆け上る。
 もしこのまま下界へ落ちないで済んだら! ……その墜落が恐ろしい。けれども人は何事をも経験しなければならぬ。向上の日に次いで低下の日が来る。私は2つながら苦しむ。……けれども同じように苦しむと言うほどに私は感動されてはいない。
 何物をも整頓するなかれ! それで絵が出来るだろうか? 同じことである! 1つの題目があなたを引き留め、あなたを動かす。その瞬間にあなたは自らのためにその光景を表現することは言うまでもない。そこに絵が見える。
 もしあなたの想像力が激しく動かされたなら、あなたはそれを見るとほとんど同時にそれを読み、それについて考えるのである。
 私の信ずるところによると、実際に感動させる絵は皆そんな風にして思い付かれたものである。
 その他にたった1つの研究と改善がある。──アトリエの仕事である。あなたはただあなたに固着して、あなたを悩まし、あなたを占有しているものを描かねばならぬ。
 デュマの言ったことははなはだ正しい。われわれはわれわれの題材を占有してはいない。題材がわれわれを占有するのである。100スウで演じる人も、10万フランで演じる人と同じ苦しみを経験する。それで私には理解することが出来るのである。
 否、否! 私は自分の印象を翻訳する必要を感じる。激しい芸術的熱情を感じる。非常に多くの混乱した事物が私の頭の中に集まっているので、いつかそれを翻訳することが出来るだろう。
 公則、おお、公則!
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by bashkirtseff | 2010-05-19 17:58 | 1882(23歳)
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