1882.08.18(Fri)

 私たちはバスティアンを訪ねたけれども内にいなかった。私は手紙を書き残して、彼がロンドンから持って帰ったものをちょっと見た。1人の小さい小僧が往来の電柱に寄っ掛かっている。何だか車の音が聞こえそうな気がする。背景はまだ仕上げがしてないけれども、その形と言ったらなかった! 何という驚くべき人だろう!
 ああ! 彼をただ仕上げのうまい人だと言うのは愚人である。彼は独創的な、力強い芸術家である。詩人である。哲学者である。他の芸術家は彼に比べると皆職人である。彼の絵が目の前にあるとき、その他のものを見るのは不可能である。何となれば、彼の絵は自然のごとく人生のごとく偉大であるから。この間トニー・R・Fは、自然を写すためにはまず大芸術家であらねばならぬということと、ただ大芸術家のみが自然を理解してそれを描き出すことが出来るという私の説に賛成した。理想は選択の中にある。仕上げのごときは愚人のいわゆる写実なるものの頂点に過ぎない。アンギュラン・ド・マリニでも、アグネス・ソレル〔シャアル7世の愛妾(あいしょう)〕でも描きたければ描いてみなさい。しかしその手、その髪、その目をば生きているように、自然に、人間らしくして下さい。題目は問題ではない。大家はよく自分の時代のものを題目にすることがある。言うまでもなく、すべての見地から見て、近代的な題目はもっとも興味のあるものである。けれども真の唯一の写実は仕上げにある。それをして自然そのものであらしめよ。生そのものであらしめよ。そうして目をして語らしめよ。それがマドモアゼル・ド・ラ・ヴァリエール〔特別の美人でもなければ、かつ少し跛でさえもあっったけれどもその顔の魅力によってルイ14世の愛を捕らえた婦人/1644-1710〕であると、サラ・ベルナールであるとはほとんど問題ではない。……興味を作り出すということは疑うまでもなく、さらに困難である。……けれどももしバスティアン・ルパージュがマドモアゼル・ド・ラ・ヴァリエールかメアリー・ステュアート(底本:「マリ・スチュアアト」)とかを描くとしたなら、──その人たちはもう死んで土になって、今では陳腐になっているけれども、──その人たちはまたよみがえることになるであろう。それからコクランの兄の方の小さい肖像の素描がある。……何と言って称賛して良いか分からない。彼が物を言うときの表情が出ている。彼が手を振って目をしばたたくときの様子が見えるようだ!
[PR]
by bashkirtseff | 2010-05-17 08:06 | 1882(23歳)
<< 1882.08.19(Sun) 1882.08.17(Tue) >>