1882.02.13(Mon)

 土曜日に私は1つの絵を始めた。私は2週間目を見張っていた。2つ3つの画題が私の注意を引いたけれども、皆2度目で嫌になった。正しく行かないときはいつもそうである。
 あなたはある画題に関して、それを探し求めるために時間を空費してはなりません。かつ求められたものがめったに成功することはありません。また私たちがまさしく突き当てたと思うことが必ず成功することもありません。けれども少なくともそれに捕らえられた楽しみはあると言えるでしょう。私は、画題というものが未熟な手に取っては不必要なものだということを知るまでには、どんなに長くかかったことでしょう?
 けれども、単なる習作を描くのにもあなたはあなたを喜ばせることをしなければなりません。題目がまず自分の興味をひく必要はないなどと断るまでもありません。私はある絵を描き出して4、5日間は実に嫌な思いをします。それを捨てる勇気もなければ、続けていく心持ちにもなれないで。結局、捨ててしまって初めて救われた心持ちになるのです。今私は初めて水彩画で下絵を描いている。毎日1分間も空費しないように使っている。それから構図も見つけた。私は小さい絵と一緒に大きい習作も1つジュリアンに持って帰りたいと思っている。その画題は3人の町の子どもが門のそばに立っているところである。私は非常に写実的で面白いと思われる。ウォルフの批評から受けた打撃が、私を良くしてくれた。私は打ち砕かれ、覆された。その反動が、美術に関する事物を良く理解するように私をした。私は今までそれに苦しめられていた。なぜと言うに私はそれらの物をつかみ得なかったばかりでなく、その存在をさえ疑っていたのである。この変化が私に健全な努力をさせるようになった。私は多くの芸術家のもがき、苦しみ等に関して読んだことが初めて分かってきた。これまではそれを空虚な小説として笑い去っていた。あの有名なブレスロオの意志、それを私は頼りにした。それから私がこれまでは天から天下るのみと思っていた成功を得るためには、非常な努力をしなければならぬということが分かった。言い換えれば、私はこれまで本当の努力を何にもしていなかったのである。この極端なのんきさが私を甘やかしてしまったのである。ブレスロオは立派な成功を得ている。けれども、彼女は多くの努力をしたのである。私はどうかと言うに、私は成功がすぐ来ないときには、また努力もしないので、いつも何事もなし得なかった。私はこの心を征服しなければならぬ。例えば、今、下絵を描くにも、木炭で構図をするにも、輪郭を美しく仕上げるのに非常な努力が必要だということを発見した。そうして、これまで私には不可能だと思われていたことが成功した。それは人がするとほとんど魔法のごとく成功していたのに、私にはなぜそんな能力が欠けているかを理解することが出来ないほど困難なものであった。
 私がこの2、3日来働いているようにして進めるならば、どんなに幸福だろう! それは単に機械のごとく働くというような問題ではなく、絶えず自分の仕事に携わって、それを考えていられることが幸福なのである。いかなる先入見もそれに対抗することは出来ない。これまでしばしば泣き言を言っていた私は、この3日間毎日神に感謝している。同時にこの状態が続かないようなことになりはしないかと恐れている。
 すべてのものが外観を変えてきた。零細な不幸はほとんど消え果てた。あなたは身内から光り輝くものが出来て、何よりも、かの神秘な、変化していく、もろい花よりももろい、あなたの喜び原因を知らない野卑な群衆に対して、1個の神聖な免罪符を得たようなものである。
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by bashkirtseff | 2010-04-12 08:04 | 1882(23歳)
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