1881.10.25(Tue)

 私は日々のことを書かねばならぬのであるが……頭が混乱している。
 私たちはここの寺院を見た。私の考えでは、世界一見事な、また世界一大きいものである。──また宮殿を見た。庭園が美しくて、女皇の浴場も見事であった。その後で私たちは市街を散歩した。誇張して言うのではないけれども帽子をかぶっている女は、私たちだけであった。そうして行き会う人たちが皆私たちの帽子を珍しそうに見ていたことを私は付け加えておく。
 私はあまり派手な服装はしていなかった。ネズミ色の毛織りの袴の上に、しっくり合った黒の上着を着て、旅行にふさわしい黒の帽子をかぶっていた。それでも旅客はここでは芸のできる猿か何ぞのように見られる。皆立ち止まって、声を立てたり、話しかけたりする。子どもたちは私を見て声を立ててあざ笑うが、大人は私に向かって、あなたはおきれいですとか、salada だとか言う。salada というのは、あなたは知っていられるとおり非常に chic 〔気が利いている〕ということです。
 セヴィルは真っ白である。実に真っ白である。街路は狭く、その大部分は馬車も通れないほどである。しかし人の想像するほど絵画的ではない。ああ! トレド、今にして思うと、私は本当に野蛮人ではあった。! ……
 トレドは真に一つの驚異である。これに比べるとセヴィルは白く塗った低い家ばかり並んで、品位において俗人的である。もちろんそこには低級な部分もある。……しかし世界中どの国へ行っても、低級な部分は興味のあるものである。そこには調和もあれば、深みもあり、見る物ごとに絵にしたくなる。
 私はエスパアニュ語が話せないのがいらだたしい。それは恐るべき一つの障害である。ことに絵を描きたいと思うときに痛切に感じる。……
 ぼろを着た半野蛮の女子どもは、驚くべき色彩を持っている。家は生々しい白色ではあるが、見た目は非常にきれいである。しかし雨が続いて、私は en famille〔家族の中〕にいる。
 私といえども、家族とともに住むことは幸福であり、一人でいることは不幸であることはよく知っている。買い物にも家族と一緒に行けるし、ボアにも家族と一緒に行けるし、また芝居にも一緒に行けるし、病気のときも、療治のときも家族と一緒にいるから、要するに、日常の家事上のことをすべて家族と共に分かつわけである。しかし家族と一緒に旅行することはどうだろう!! それは自分の叔母とヴァルスを踊るようなものである。
 私は昨日4、5時間かかって乞食の習作を一枚描いた。等身大の首を。手早く描けるようになるためには、ときどきこんな急速の写生をしてみることが必要である。
 実に私は島流しになっているような気持ちである。この灰色の空の下で昼間は実に長い。私は蚊のためにあまり眠れないから、気がふさいで仕事ができない。
 セヴィルにはもう少し面白いことがたくさんあるかと思っていた。けれどもオテルのうちに閉じこめられてばかりいて、退屈でたまらない。今日も雨が降っている。
 恋もなければ、詩もなければ、若ささえもない。何にもない。実際セヴィルにおける私の生活には何にもない。私はロシアにいたときと同じように、この夏は生きながら埋められているような気持ちである! ……いったい何のために旅行しているのだろう? そうして絵はどうなるのだろう? ……もう5カ月を私はアトリエに入らない。その5カ月のうち3カ月は旅で空費してしまった。非常に勉強しなければならない私が! ……ブレスロオの名前を思い出すと様々の思いが私の頭の中にわいてきて、今までは遠くにあったサロンの賞牌の夢が、すぐ手近に迫ってくる。それは私がレジオン・ドンノオルの勲章をもらうことを夢見たり、エスパアニュの女皇になることを夢見たりすると同様に、いつも寝る前に描いてみる夢であった。ヴィルヴィエルが私にブレスロオは賞状をもらったと話してくれたとき、彼女はそれが私を悩ますだろうと考えていたらしかった。実際、ほかの人たちは皆私が賞与を受けるだろうと思っていたので、私自らもそう考えるだけの勇気が出来たのである。……少なくとも、私だけに言うのであるが、他の人がそう思う以上は、実際そう思われるだけの可能があるに相違ない。私はこの夢を最近5カ月間慈しんできた。
 これは余計な話だと思われるかもしれない。けれども事件は皆つながり合っている。──ロレンゾオのところで描いた写生は絵になれるかもしれない。
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by bashkirtseff | 2009-12-27 16:39 | 1881(22歳)
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