1881.10.10(Mon)

 私が博物館で仕事をしていると、やや年を取ったあまりきれいでもない男が2人そばに来て、私にマドモアゼル・バシュキルツェフじゃありませんかと聞いた。──そうです。──そのとき、2人の男は非常に興奮していた。ムッシュ・ソルダテンコフはモスコウの金持ちで、また大の旅行家で、美術と美術家を尊敬していた。ポラックの話によると、博物館長の息子マドラツォもやはり美術家であるが、私の模写を非常に喜んで、私と知り合いになりたいと言っているそうだ。老ソルダテンコフは私の絵を売ってもらえまいかと聞いた。私は愚かにも売りませんと答えた。
 絵のことを言うと、私はいろんなことが分かってきた。今まで見なかったものが見られるようになった。私は目を大きく開けて、つま立っている。そうして息を殺している。魔法が消えてはならないから。実際これは正真の魔法である。私は最後に夢を実現したいと思っている。私はどんなことを希望したらばよいか分かってきたように思う。私のある限りの力は1つの目的の方へ向かって緊張している。良い絵が描きたいと思って真の肉、生きた調子の絵が描きたいと思って。……それが出来たら、1個の芸術家となったならば、賞讃に値する仕事をなしたのである。なぜと言うに、仕上げがすべてであるから。例えばヴェラスケスの「ヴァルカンの鍛冶場」もしくは彼の「紡績女工」を見ましたか? これらの絵の中からその驚くべき彩色の仕上げを取り去ってみなさい。そうしたら、どんなに平凡な形だけが残るでしょう。こう言うと、多くの人は反対するでしょう。ことに感情を重んじるような顔をしている人たちは。感情はもちろん大事なものであるが、それは詩においても絵筆の美においても仕上げの技巧の中にある。これは私たちの考える以上に真実なことである。あなたは細い素朴な形と滑らかな彩色をした初期の大家たちを好みますか? ……それは奇抜で面白くはあるけれども、賞讃するわけにはいかないでしょう。あなたはラファエルの「聖母」を好みますか? こう言うと生意気だとお思いになるか知れないが、それは私を感心させません。もちろんその絵には感情の高潔なところはあります。その点は私も尊敬するけれども私にはどうしても好ましくありません。しかし同じラファエルでも「アテエヌの学校」などは実際賞讃すべき絵で、比較さるべきものもありません。ことに版画もしくば写真画においては。これらを見ると思想もあれば、感情もあれば、天才の発動もあります。あなたに知っていただきたいことは、私はルーベンスのあの下品な肉の描き方や、チチアンのあの壮大ではあるが間の抜けた肉の描き方には反対であります。人は心と物が共に必要です。簡単に言えば、ヴェラスケスのごとく、仕上げにおいては詩人であることが、また構図においては思想家であることが必要です。
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by bashkirtseff | 2009-11-25 07:37 | 1881(22歳)
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