1881.07.07(Thu)

 ニニと彼女の妹とヂナが私と一緒に私の部屋に来て、壊れた鏡ということに関して不幸な話をした。3本のろうそくに関しては、私はここで2、3度それを見たことがある。私は死ぬのだろうか? そう考えて私は身震いすることがある。けれども神を信じているときには私はそれほど怖くは感じない。……それでも私は生きたい。もしかすると私は盲目になるのかも知れない。そうなったら、私は自殺したも同様である。一体、死んだあとで私たちはどうなるのだろう? どんなことになるのだろう? 少なくとも今の苦しみを逃れることは出来る。もしかすると、私はつんぼになるかも知れない。つんぼという言葉を思うと、私はこんなことを書かずにはいられない。……私の神様、それにしても私は今では以前のように祈れなくなった。もし身内のものが誰か……例えば、父が死んだら! ……しかし母様が死んだら? ……そう思うと私は彼女に不愉快な言葉を言ったことで、生涯気が済まなくなるであろう。
 私のことで神に一番喜ばれないことは、言うまでもなく、私は自分の心のもっとも軽い動き方までも書き留めておりながら、これこれの考えは私が悪いからだと言われるだろうだとか、これこれの考えは良く言われるだろうとか、思わざるを得なかったり、かつ、それが善であることを知ると同時に、もはや価値はなくなって、すべてが失われてしまう、ということである。もし私に寛大な親切なキリスト教徒らしい衝動が動いているならば、私はすぐにそれに気がつくはずである。だから、自分のことはともかくとして、私はこれが私に報いをもたらすと思って満足を感じるのである。──こういう考えの下においては、すべての価値は消滅してしまう。
 例えば、今私は下へ降りて体を母の腕の中に投げて、これまでのわがままをわびようとする衝動が起こったとする。そうするともちろんこれに続いて起こる考えは、そうすることが私に有利だということで、それと共にすべての価値は失われてしまった。そのとき、私はこんな風に自分の計画を実行することは私に損の行くことではなく、また自分のことはともかくとして、私はそれを多少横柄に、また子どもらしく行えば良かったというように感じる。何となれば、私と母との間には真正なまじめな感情が行き渡っているはずはなかったから。母から見れば、私はいつもふざけ者とよりほか見えなかったであろう。そうしていなければ、私は自然に見えなかったであろう。母は私が芝居をしていると思っているに相違ない。
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by bashkirtseff | 2009-10-13 07:47 | 1881(22歳)
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