1881.05.25(Wed)──ベルリン

 それで私は昨日パリを立った。叔母は母が1人でパリに残るのを見て泣かなかったが、それは彼女の感情に動かされることを私が非難するだろうと心配してであった。けれども彼女は死ぬほど悲しんで、再び私を見ることがあるまいと思っている。気の毒な人ではある。母を愛し、私をば母故にさらに2倍も愛している。それに私は彼女に対してこの上もなく無愛想にしている。それほど高尚な献身の心に対してそれほど悪い報い方をすることがどうして出来るのだろうと、自分ながら不思議に思っている。しかし、私がどんなことを仕向けるにしても、彼女はただ注意と親切を私の上に浴びせかけるのみである。私からは何事をも頼む必要はない。彼女は私が病気で非常に不幸だということを知っているから尚と私の心の向き方を注意している。彼女には何事も出来ない。私の実際生活を不愉快になるようにしまいとすることを除いては。
 私の健康は覆されてある。そうして私の気の毒な家族の人たちは、何もかも誇張して、私をすでに失われたと同様に考えている。
 けれども私はいつも、少しでも目に見えて悲しんでいる時には、1番きれいな果実とその季節の1番の野菜が私の好きな皿と一緒に必ず出ているのを見て慰められていた。こんな親切はつまらなく見えるかも知れないが、その中には心を動かされるものがある。また私は優しい風をすることが出来ない。叔母は私がそのことをば一言もささやかないとしても、私が出来る限りすべての人間の顔を避けていることに気が付いている。だから晩さんの用意が出来たのを見ると、彼女は私を書物と2人きりにして行ってしまう。もしうちの人たちが3、4人もいる時は、私は我慢することも出来れば、一緒に話をすることも出来る。けれども1人きりでいることは、私を困らせる1つの親しみである。私は気難しく座りながら、それほどまで献身的な道徳的な婦人に対して愛情の欠けていることをわれながらとがめている! 何となれば、私たちは皆非常に道徳的な人間である。私の気の毒な叔母はその点においては一箇の天使である。
 それで私は出掛けたのである。
 立つ前に私はトニーに会いに行った。彼は非常に悪いので私は感謝の手紙を残してきた。ジュリアンは外出していた。それは返って幸せであったかも知れない。なぜと言うに、彼に会ったなら私は決心を変えて残ることになったかも知れないから。また旅行することは私には必要でもあったから。……この1週間家中の人は誰も皆泣きだすことを恐れて、お互いに顔を見合わせる者もなかった。私は1人で取り残されると、絶えず泣きながら、叔母に対してどんなに残酷であったかを考えてばかりいた。けれども叔母は自分が後に残るという問題になった時に、私が泣いたことを知っているはずである。叔母は私に嫌われていると思っている。私はこの英雄的な人間が犠牲の生涯を送っていること思うと、私は涙の中に溶け込んでしまう。彼女は善良な叔母として愛されるだけの慰めをも持たない。けれども私は叔母以上に愛する人は世界中に1人もない。……ついに私はベルリンに来た。家族の人たちとガブリエルが停車場に来ていた。私たちは一緒に食事をした。
 何よりも恐ろしいのは私の耳が聞こえないことである。これは私の受けるもっとも恐ろしい打撃である。私は今以前に望ましく思っていたことを皆恐れている。私は経験が多くなかったから、才能が伸びかけてきたから、物を処置することはうまくなってきたから、もし耳さえ当たり前に聞こえたなら、世界は私の物のように思われるであろう。そうして私のこの病気に関しては、千に1つもそんなことにはならないだろうと思われる。私の診てもらった医者たちも皆そう言う。「大丈夫です。あなたは喉頭が悪いからと言って、つんぼになるようなことはありません。そんなことは極めてまれにしかないものです!」ところがそれがちょうど私の場合である。……あなたはこの醜い不具を隠すのにどれだけの空とぼけと、不断の緊張を必要とするかが想像もつかないでありましょう。それは以前から知り合いで、そうしてめったに会わない人たちに対してそうするのであるが、しかし、例えばアトリエなどではもう皆が知っている。
 それは知識の上にどれだけの損失を来すであろう! 私は生気に満ちることも、機知に富むことも、どうして可能であろうか?
 ああ! すべては終わった。
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by bashkirtseff | 2009-07-02 07:44 | 1881(22歳)
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