1880.10.05(Tue)

 もう何もかも打ち任せてしまって、と言うよりはむしろ、ある限りの勇気を出して、心の底の底を探ってみて、これは要するに無関心の問題ではあるまいかと自分に聞いてみると良い。ある方法で生きると、他の方法で生きると、それが何のかかわるところであろう? 私は自分の感情を征服して、エピクテトスと共に、悪を善として受け取るも、いかなることが生じても無関心でそれを受け取るも、全く心のままであると言いたい。人はこの種類の死に方でこの世を去るように満足するためにはひどく苦しまねばならぬ。そうしてかくのごとき生きている死に方をしていくことが可能であるのを理解するためには、それまでに十分に苦しんで絶望の極に達していなければならぬ。しかしもしそれに落ち着くことさえ出来るならば、少なくとも心の平安は得られる。……これは空虚な夢ではなくて、1つの可能である。しかしあなたは言うでしょう、それにしてもなぜ生きているのか? と。あなたはすでに人の世に生まれてきている以上は、こんな風に生きていくことが不必要になるのは言うまでもない。実際、それは実生活が無限の悪の原因であるということ、あなたがほかのものを受け取るということ、あるいはあなたが第1のものから逃れて第2のものの中に隠れるということ、これをすべて実感した後のことである。
 人はある程度の肉体的苦痛においては意識を失って恍惚の心境に入る。同じことがある程度に達した道徳的苦痛に対しても生じる。私たちは高く飛び上がると、苦しんでいたことがつまらなくなり、何もかもばかばかしく思われて、昔の殉教者のごとく首を真っすぐに持ち上げて歩くようになる。
 要するに、私の過ごすべき50年の歳月が牢屋の中で送られると、宮殿で送られると、社会で送られると、孤独で送られると、何のかかわることがあろうぞ! 結局は同じである。私の思い煩っていることは、してみると、初めと終わりの間に経験される感情で、これは過ぎ去ってしまうと痕跡も残らないものである。永続しないで、かつ痕跡も残らないようなものが、何の重大であろう! 私は仕事によって自分の生活を利用することが出来る。才能も私にはある。多分それは何かの痕跡を残すであろう……死後に。
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by bashkirtseff | 2009-02-03 17:43 | 1880(21歳)
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