1880.09.28(Tue)

 昨夜から楽しい日が始まった。私はの夢を見た。彼は病気で醜く見えた。けれどもそれは少しも気にならなかった。──私はその時初めて、人が愛するのは美のためではないことを知った。──私たちは以前のように友達のごとく話し合っていた! 私はただ1つのことを望んだ。それは私たちの友情が続かれる限りいつまでも変わらないでありたいということである。
 それはさめている時でも私の夢であった。要するに、私は昨夜ほど幸福に感じたことはなかった。
 サンタマンドが昼食に来た。お世辞の雪崩。私はああでありこうであると言って。この冬は私の周りに、élite〔卓越した人たち〕の一団を作ろうと言っていた。彼は有名な人たちとか相当の人たちとかを連れてくるつもりである。私はそんなものをば望まない。私はただ笑ってばかりいた。
 少デュマは、若い娘たちは恋をしないでただ選択をするのみだと言っている。なぜと言うに、彼らは恋はどんなものであるかを知らないから、と言っている。してみると、一体恋をばどこへ置くつもりでしょう、ムッシュ・デュマ?
 人は大概何らかの思想を持つ程度には物事を知っている。……ムッシュ・デュマが恋と呼ぶところのものは単に恋の結果でありかつ自然的完成に過ぎないものであって、決してそれだけで独立した完全なものではない。少なくとも相当に礼節ある人にとっては。「しばしば避け難き結果である。そうしてそれなしではいかなる恋も可能でない。」と同じデュマは言っている。彼はまたそれを「愛の最後の表現」と呼んでいる。それを私は承認する。けれども若い娘に恋がないというのは無意義である。私は自分ではそれについて何にも知っていない。けれども恋には、嫌いなものに対しては、その中に人を近寄せないあるものを持っており、愛する時にはその中に「愛の最後の表現」を持っているように私には感じられる。
 それからまた時々心の中に生々しい空想がわくことがある。あなたには私の意味するものがお分かりでしょうが、……それは男が近寄せないような態度でない時である。しかしそれは恋とは関係のないものである。何よりも私を恐れさせるものは、私が何とも感じない人の唇の上に接吻することである。私にはとてもそんなことはできないだろうと思われる。
 しかし愛する時には、ああ! それは……全く別問題である。例えば、昨夜私は夢の中で愛した。時としてはさめている時にも私にはそんなことがあった。さて、それは実に純潔で、実に温情に富んで、実に美しい。恋は壮大で純粋な感情で、その中にあるすべてのものが清浄である。
 ムッシュ・デュマのは客観的なものではなく、ただ感じられたことの結果に過ぎない。そうして人がすでに愛しているものをますます愛するための一手段に過ぎない。
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by bashkirtseff | 2009-01-30 18:56 | 1880(21歳)
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