1880.07.14(Wed)

 バスティーユ占領の記念祭。閲兵や旗行列や装飾灯や舞踏会が至る所に催されている。パリは生まれ変わったように美しく見える。6時に私たちはポルト・マイヨ(ボア・ド・ブローニュ(底本:「ブウロンニュ」)の北東に接したパリの一停車場/底本:「メエロット」)で1周列車に乗った。私はマガザン・デュ・プランタンで25フラン払ったセキチク色の着物を着た。
 私たちは途中で装飾灯を見たり、ベルヴィル(底本:「ベルヴィユ」)の騒ぎを見たりして、話したり笑ったりしているうちに、停車場を見落として、3度も乗り換えなければならなくなった。1番いけないことは、どこの停車場も人がいなくて砂漠のように見えた。ついに私たちは広い砂漠の中へ降りた。もう8時で、空腹を感じてきた。ゲエラアルがラック・サン・ファルジョー(底本:「ファルゴオ」)で食事をしたらばどうだろうと言いだした。美しい木陰と湖水と良い料理と、いわく何、いわく何、異議なし。そこで私たちは探検の旅に出掛けて、ビュット・ショーモン(パリ東北郊の遊園地でベルヴィルに接している/底本:「バット・ショオモン」)に入った。私たちは絶望的に飢えていた。けれども景色が優れているのを見て、ことに殿堂のごとき亭(ちん)を発見してわずかに飢餓を慰めていた。ジュリアンはほとんど出会う人ごとにそれを呼び止めて、料理屋を教えてくれと頼んだ。皆は別々の教え方をした。私たちは気慰めに歩道を褒めながら歩いていると、ついに1つの湖水と1軒の装飾灯をつけた料理屋が目に入った。喜び勇んで私たちは駆け出した。けれども、10分ほど歩くと、行く手に横木が遮っているのを発見した。私たちは引き返して別の道から遠回りした。苦しくてたまらなかった。未来のマダム・ゲエラアルは死にそうなほどに飢えていた。そうして私たちが冗談半分に何かの運の悪いことを話しだすと、そのたびにきっとそれが事実となった。その湖水はサン・ファルジョーではなく、その料理屋は当たり前のカフェで食べる物は何にもなかった。
 ──ラ・ヴィレットまでいらっしゃい。1人が言った。
 ──立ち食いをしようと思うなら、1人の酒に酔った男が言った、あそこへ飛び込んだ方が早いでしょう。そう言ってその男は1軒の酒屋を指さした。
 おお、有り難い! 馬車がやってきた。──しかし私たちを乗せることを拒んだ。拝むようにして頼んだ後で、やっと彼は承知した。私たち5人は、肩を押し合ってそれに乗り込み、ラック・サン・ファルジョーを指して出掛けた。私はそれから1時間小さい町々のほとんど人けのなくなっているところを通り過ぎたことをば詳しく話しますまい。やがて私たちは着きました。ラック・サン・ファルジョーは湖水ではなくて、汚いため池であった。もう9時半である。腰掛けると、雨が降ってきた。私たちは大きな集合所へ入らねばならなかった。私はいすの上に飛び上がった。──「皆さん、私は何事に対しても臨機応変主義者です。さて今やこの際に臨んでは食べることが臨機の仕事でありますから、私は私たちがいま一度着席することを提議致します。」
 10時ころになって私たちはビュット・ショーモンの上から花火を見たらどうだろうと思い付いた。私たちは料理屋の戸口でまた先刻の天使のような馬車屋に出会った。彼は酔っていた。けれども困難な通路において大使の才能の実証を示した。そうして実際、「馬車なんかぶっ倒れてしまえ」というような叫び声が聞こえた。しかし私たちは「Vive la République!〔共和制万歳〕」と叫んでそれに答えた。
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by bashkirtseff | 2009-01-20 15:01 | 1880(21歳)
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