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1880.03.22(Mon)

 トニーは私のこんなに早く仕上げの出来たのを驚いている。
 ──あなたが一生懸命になったのは初めてですね?
 ──ええ、そうですの。
 ──そうでしょう! うまく出来たことがあなたにはお分かりでしょう。
 彼は上着を脱いで、パレットを取って、私のために手を直してくれた。下になった方の手を、彼の特有の白っぽい陰影に塗った。
 彼は髪の毛にも手を入れた。それをも私は手と同様にすっかり塗り直した。こうして彼は手を直していると、私は面白くなって、彼に話しかけた。
 背景と髪の毛とふらし天を除けば、どこも同じように汚い色である。まるで継ぎはぎだらけである。私はもっと良く描けるはずである。これはトニーの意見である。しかしそれにもかかわらず彼は満足して、もし私の絵がサロンで拒絶されると思うならば自分が1番それを出品しない方がよいと言うだろうと言った。彼は私の仕事を見て驚いたと言った。思い付きも良く、組み立ても良く、仕上げも良く、調和があって、品があって、美しく出来ている。
 おお! しかり、しかり、しかりながら私は肉に不満足である。そうしてこれが私の出し方だと言われそうである。それは継ぎはぎだらけである。私はそれを見詰めていなければならぬ。私は新鮮と単純が好きだから、いつもひとはけで大胆に塗ることを望ましく思っているのである。ところがその仕上げに不満足な、私のいつもの行き方とはまるで違ったこんな絵を出品することは、私には甚だつらいことである。実際私はこれまで自分で満足するような物をまだ描いたことがない。要するに、この絵は汚くて継ぎはぎだらけである。トニーの言うところによると、ブレスロオの今度の絵はバスティアン・ルパージュの影響が見えるそうである。彼女は私の影響をも感じている。私が彼女の影響を感じていると同じように。トニーはこの上もなく良い人である。そうして私はもっと良く描けるはずだと言ってくれた! 哀れむべき自己軽視であった! 哀れむべき自信の欠乏であった! 私はちゅうちょしたり To be or not to be! と言ったりしなかったら良かった。……しかし過ぎたことを悲しむの愚はやめよう。
 なぜだか分からないが今夜はしきりにイタリアのことが思い出される。これは私がいつも避けようとしている苦しい思いの種である。私はあまり刺激されるのでローマ時代の読み物をよして、フランス革命とギリシャ史に帰った。それにしても、ローマとイタリア、その太陽とその空気と、その他、思い出すと気が違いそうだ。
 せめてナープルでも、……おお! 月のナープル! ……しかも不思議なことに、そうした場合に人間が1人も出てこない。今にそこに行けるかも知れないと思うと私はじっとしていられなくなってしまう。「ラ・ミュエット」の背景が私に一種の感情を引き起こさせると同じ程度に。
by bashkirtseff | 2009-01-10 13:13 | 1880(21歳)
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