1879.04.01(Tue)

 なぜ陽気の方が悲哀より気持ちが良いのだろう? 私は倦怠が私を喜ばせるのだと思ってもらわなければならぬ。
 エピクテトス〔ローマのストア派哲学者、紀元1世紀の人〕の綱要〔弟子たちの書きためた「エンキリディオン」〕の回想、しかもはなはだ適切な。しかし私は答えうる、第1印象は心から出たものではない、と。だから私たちはいくら強くても、第1印象に驚かされ、それに従って好きな行き方をする。が、いつも必ずそうあるに決まっている。すべて第1印象、言い換えれば自然印象の方向へ進んで、経験した感情を基礎としてそれを強めていくことの方が、それから岐路へそれたり、それをたわめ曲げたり、感情をそいで他人の感情に従わせたり、あるいは感情を混乱させたり、抹殺したり、何者にも煩わされなくなったりすなわち……私の欲していることであるが、生きることをやめたりすることなどより、はるかに自然な行き方である。手短にするためには……。いやしかし、……そんなことをすれば万事終わってしまうわけである。
 世の中で1番忌むべきことはその中にいないことであり、知られずに生きていることであり、興味ある人を見ないことであり、意見を交換する機会を持たないことであり、有名な人、時代の人を知らぬことである。これは死であり、地獄である!
 今度は俗に不幸と称するところのものについて話しましょう。私たちは背いたり不平を言ったりしてはならぬ。悲しみさえも喜びである。悲しみは人生に必要なものだと考えねばならぬ。私が愛していたものを亡くしたと仮定して、あなたはそれが私にとって何でもないことだと思いますか? 反対に、私は絶望して、泣き叫びます。するとその苦痛は長く引き延ばされたおそらくは永続的な悲哀の中へ溶け込んでしまうのです。
 それが愉快だというのではありません。私はそれを望むのでもなければ、それを好むのでもない。私はそれが人生であり、従って楽しみであると言わないではいられないのです!
 私たちは夫を亡くしたり子どもを亡くしたり、友達に欺かれたりして、自分の運命を声高くののしることがある。私もそれと同じことをします。しかしそんな表れは事物の性質によるもので、神はそれで気を悪くしたりすることはない。人間だって気を悪くしたりすることはない。これは私たちの耐え忍ぶ悲しみの避け難き自然の結果だということが分かっているから。私たちは不平は言うけれども、内心からこんなものはなければよいと思うのではない。ほとんど無意識にそれを受け取るのである。私たちは隠遁(いんとん)したり、後で尼寺へ入ったり、後で……あなたにはお分かりでしょう。
 また私たちは全く一人きりでいて幸福なこともある。それは夫があるとか両親と一緒に住まねばならぬとかいう場合もそうであるが、私の言っているのは全くの独り者のことである。……その上、私は自分の家族に対する嫌悪の情が私の苦しみの原因のひとつとなっている。ただし私は小説家が考えだしたり写生したりして描いてある物言わぬ主人公たちのことを言っているのではありません。
 あなたは、私が静かな生活に飽き足りないで、刺激を求めているのだと思うかも知れませんね? May be〔あるいは〕、しかしそうではありません。
 私は孤独が好きです。もし生きていられるとすれば、私はいつも一人きりで読んだり考えたり休息したりしていたいとさえ思う。そうするとそれが楽しみとなります。暑い日には穴蔵へ入りたくなる。けれどもそこにいつまでも永久にいられるでしょうか?
 今仮にどこかの物知りの人がわざわざ私を議論で打ち負かしてやろうと思って、例えば私は母の死に変えても生を買い求めたいかと聞くかも知れない。それに対して私は答える。私はもっと安い値段でも生が欲しいとは思わない。なぜと言うに、天地間において母親は人の1番愛するものであるから、と。
 私の後悔は一通りではあるまい。私は我欲のために満足していられないであろう。
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by bashkirtseff | 2008-12-16 09:57 | 1879(20歳)
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