1879.03.03(Mon)──パリ

 昨日の正午ニースを立った。天気は良かった。私はあの美しい比類のない土地を去るに臨んでほとんど涙を流さずにはいられなかった。私の窓からは庭園とプロムナード・デ・ザングレとパリ風のすべての美しいものが見えた。廊下からはリュ・ド・フランスとその両側に並んだ昔からのイタリア風の建物と絵画的の陰影に富んだその路地などが見えた。そうして私を見覚えている人たちは、私が通っていると──マドモアゼル・マリだと言っただろうと思う。
 ニースの人間は私を苦しめる。それだけ私は家々や町を愛する。それは何と言っても私の郷土である。
 私はパリを見捨てたくてならぬ。心は乱れ、気は阻喪している。私はもう何物をも期待せねば、何物をも希望しない。絶望してあきらめている。考えて考えて、暗闘の中を捜し回る。けれども何物をも捜し当てない。そうしてため息をつけば、前よりも苦しくなるばかりである。もしあなたが私の立場にあったならばどうなさるでしょう!
 今私はこんな情けも知らぬパリにいて、何だかこれまで海というものをろくに良く見たことがなかったような気持ちがする。また海を見に行きたくなった。私はバガテル〔飼い犬〕を連れて帰った。スパでひかれたのが、不思議にも治った。一人きり残しておくのが私にはかわいそうでならなかった。あなたにはとてもこの犬の善良と忠実と愛情とがお分かりでないでしょう。この犬は決して私のそばを離れないでいつもいすの下にいて、叔母がじゅうたんのことか何かをやかましく言いに来ると謙遜な訴えるような顔をして隠れている。
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by bashkirtseff | 2008-12-11 16:59 | 1879(20歳)
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